長文集  2月1週  ★イスラエルを旅していたとき(感)  yube-02-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2016/12/15 04:23:22
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】顔パスという言葉がある。「おれだ
」「よし」という阿吽(あうん)の呼吸で、
本来は規則として処理するところを当人どう
しの個人的な関係で処理する方法である。な
れ合いというと聞こえは悪いが、人間どうし
の信頼(しんらい)関係を基礎(きそ)にし
ている点で最も確実な方法とも言える。【2
】現代の法律や規則万能の社会では、このよ
うな人間の信頼(しんらい)関係に基づいた
対応の仕方がもっと見直されてもよいのでは
ないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだ
けの心の広さを持つことだ。【3】信頼(し
んらい)するということは、相手に自分をゆ
だねることである。場合によっては、自分が
大きな損失を被る(こうむ )こともある。
それにもかかわらず、相手にすべてを任せて
信頼(しんらい)する。そういう決意がある
からこそ、相手も自分を信頼(しんらい)し
てくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自
分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし
、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教
は、「その銀の食器は私が与え(あた )た
ものだ」と告げる。このように、相手の善な
る心に対する絶対の信頼(しんらい)が、人
間らしい心をもとにした社会の基礎(きそ)
となる。
 【5】また、第二には、そのような人間ど
うしの信頼(しんら い)を支えるだけの社
会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安
のよさは、世界の中でも際立っている。タク
シーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻
っ(もど )てくる。【6】日本人にとって
は当たり前のように見えるこのようなことが
、世界ではきわめて稀(まれ)なことなので
ある。そういう社会が築かれたのは、日本が
一つの民族、一つの言語、一つの文化を持っ
た社会だったからである。【7】異なる民族
や文化と共存することはもちろん大切だが、
それは日本の社会の中に異なる民族や文化が
異質なまま広がっていいということではない

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
 【8】法と正義に基づいて判断するという
考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取
ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世
界のどこでも通用するグローバルな思想とな
っている。しかし、そのグローバリズムは、
日本のように互い(たが )の信頼(しんら
い)関係をもとに成り立ってき∵た社会では
、人間の心を持たない冷たい機械のような対
応に見える。【9】大岡越前守(おおおかえ
ちぜんのかみ)が日本人に人気があるのも、
人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたか
らだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔
ではなく、互い(たが )の善意への信頼(
しんらい)なのであ る。【0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】イスラエルを旅していたとき「ここ
では全員一致の裁決は採用しないんですよ」
と聞かされた。
 ユダヤ教の習慣だ、というような話だった
が本当だろうか。根拠は、もう一つ、はっき
りとしないけれど、事実ならば、なかなか興
味深い。
 【2】みんなが賛成したときには、それを
よしとしない、と言うのだから「そんなばか
な」という声が、すぐさま聞こえてきそうな
気もするが、この種の言い分は一つのパラド
ックスである。そのまま受け取ってはなるま
い。どういう条件の中でそれを言っているの
か、中身を吟味する必要がある。
 【3】まず第一に、みんなが一致できるよ
うな案件は、いちいち採決にかけないという
事情があるだろう。答えが初めからわかって
いることを、わざわざ問いただして全員一致
を確認するケースは『ない』とは言わないが
、あまり意味を持たない。【4】だから、こ
とさらに裁決を求めるのは、べつな考えがあ
りそうなときであり、そうであるにもかかわ
らず、裁決の結果、全員一致というのは、ち
ょっと疑ってみたほうがよい、という教えだ
ろう。
 たとえば、みんなが熟慮せず、いい加減に
答えているケースがある。【5】また反対意
見をすなおに言い表せない状況が、そこに伏
在しているケースも少なからずありそうだ。
さらにまた、あまりかんばしくない根まわし
がおこなわれているケースもあるだろう。
 こういう事情を勘案すれば、一つのパラド
ックスとして「全員一致は採用せず」という
理屈も理解できる。
 【6】たとえば日本相撲協会。ほとんどの
重要議題が、全員一致でシャンシャンと決定
すると聞いたことがあるけれど、私なんか根
が疑い深くできているから、
 ――本当かいな――
 と首をかしげてしまう。異論を唱えると、
いろいろまずいことが生じそうだから、形だ
け一致させている、と、そういうことではな
いのか。
 【7】これが私の勘ちがいならば、まこと
にご同慶にたえない が、相撲協会はともか
く、こうした気配を漂わせている全員一致 
も、世∵間にはけっしてまれではあるまい。
わざわざ裁決を必要とするような案件ならば
、一人や二人、異論を挟む者がいるほうが自
然である。
 【8】お話変わって、テレビの時局討論会
などを聞いていると、司会者が、「イエスか
ノーかで答えてください」と言っているの 
に、長々と意見を述べる論者が多い。と言う
より、この設問に対して「イエス」あるいは
「ノー」のひとことで答えたケースを、私は
見たことがない。
 【9】この設問に対する答えは「イエス」
か「ノー」か、あるいは「この問題にはイエ
スかノーかで答えられません」か、この三つ
しかないと思うのだが、現実には、どれでも
ないことが圧倒的に多いのである。
 【0】論者の本心を推測すれば、イエスか
ノーか答えはできているし、答えようと思え
ば答えられるのである。ただ、イエスの中に
もいろいろなイエスがある。ノーの中にも同
様にいろいろなノーがある。自分の心中を尋
ねてみて百対ゼロの確信でイエスが言える場
合もあれば、五十五対四十五でからくもイエ
スに傾いている場合もある。その内容はとて
も複雑だ。
 にもかかわらず、「イエス」と答えたとた
ん、すべて百対ゼロのイエスのような印象を
ふりまくことになってしまう。その誤解を避
けるあまり、簡単に答えることができない。
 五十五対四十五の迷ったあげくのイエスと
、四十五対五十五の迷ったあげくのノーとの
間には、十ポイントのちがいしかない。僅少
差と言ってよい。さらに言えば、五十五対四
十五のイエスは、百対ゼロのイエスより、ず
っと四十五対五十五のノーに近いのである。
が、結果的には、それもイエスのグループに
まとめられてしまう。
 この世にある、すべての困難な決断は、五
十五対四十五と、四十五対五十五との間にあ
る、と私は考えている。百対ゼロはおろか、
七十対三十くらいの状況だって、判断は明々
白々、悩むほどのことではない。五十五から
四十五に至る僅少の差異を……わずかな迷い
をどう考えるか、この世の悩みは、そこにあ
る。こんなふうに考えてみると、全員一致を
排除するパラドックスもおおいに意味を持つ
ように思えてならない。 (阿刀田(あとう
だ)高の文章による)