1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】文化の発展には民族というものが
基礎とならねばならぬ。民族的統一を形成するものは
風俗慣習等種々なる生活様式を挙げることができるであろうが、言語というものがその最大な要素でなければならない。故に
優秀な民族は
優秀な言語を
有つ。【2】ギリシャ語は
哲学に適し、ラティン語は法律に適するといわれる。日本語は何に適するか。私はなおかかる問題について考えて見たことはないが、一例をいえば、俳句という
如きものは、とても外国語には訳のできないものではないかと思う。【3】それは日本語によってのみ表現し得る美であり、大きくいえば日本人の人生観、世界観の特色を示しているともいえる。日本人の物の見方考え方の特色は、現実の中に無限を
掴むにあるのである。【4】しかし我々は単に俳句の
如きものの美を
誇とするに安んずることなく、我々の物の見方考え方を深めて、我々の心の底から
雄大な文学や深遠な
哲学を生み出すよう努力せなければならない。【5】我々は腹の底から物事を深く考え大きく組織して行くと共に、我々の国語をして自ら世界歴史において他に類のない人生観、世界観を表現する特色ある言語たらしめねばならない。【6】本当に物事を考えて真に
或物を
掴めば、自ら他によって表現することのできない
言表が出て来るものである。
3. 日本語ほど、他の国語を取り入れてそのまま日本化する言語は少いであろう。【7】久しい間、我々は漢文をそのままに読み、多くの学者は漢文書き下しによって、否、漢文そのものによって自己の思想を発表して来た。それは一面に純なる生きた日本語の発展を
妨げたともいい得るであろう。【8】しかし一面には我々の国語の自在性というものを考えることもできる。私は復古
癖の人のように、
徒らに言語の
純粋性を主張して、
強いて古き言語や語法によって今日の思想を言い表そうとするものに同意することはできない。【9】無論、古語というものは我々の言語の源であり、我民族の成立と共に、我国語の言語的精神もそこに形成せられたものとして、何処までも深く研究すべきはいうまでもない。しかし言語というものは生きたものということを忘れてはならない。【0】『源氏』などの中にも、∵
如何に多くの漢字がそのまま発音を丸めて用いられていることよ。また
蕪村が俳句の中に漢語を取り入れた
如く、外国語の語法でも日本化することができるかも知れない。ただ、その消化
如何にあるのである。
4. 「国語の自在性」(西田
幾多郎)より∵
5. 【1】イスラエルを旅していたとき「ここでは全員
一致の裁決は採用しないんですよ」と聞かされた。
6. ユダヤ教の習慣だ、というような話だったが本当だろうか。
根拠は、もう一つ、はっきりとしないけれど、事実ならば、なかなか興味深い。
7. 【2】みんなが賛成したときには、それをよしとしない、と言うのだから「そんなばかな」という声が、すぐさま聞こえてきそうな気もするが、この種の言い分は一つのパラドックスである。そのまま受け取ってはなるまい。どういう条件の中でそれを言っているのか、中身を
吟味する必要がある。
8. 【3】まず第一に、みんなが
一致できるような案件は、いちいち採決にかけないという事情があるだろう。答えが初めからわかっていることを、わざわざ問いただして全員
一致を確認するケースは『ない』とは言わないが、あまり意味を持たない。【4】だから、ことさらに裁決を求めるのは、べつな考えがありそうなときであり、そうであるにもかかわらず、裁決の結果、全員
一致というのは、ちょっと疑ってみたほうがよい、という教えだろう。
9. たとえば、みんなが
熟慮せず、いい加減に答えているケースがある。【5】また反対意見をすなおに言い表せない
状況が、そこに
伏在しているケースも少なからずありそうだ。さらにまた、あまりかんばしくない根まわしがおこなわれているケースもあるだろう。
10. こういう事情を
勘案すれば、一つのパラドックスとして「全員
一致は採用せず」という
理屈も理解できる。
11. 【6】たとえば
日本相撲協会。ほとんどの重要議題が、全員
一致でシャンシャンと決定すると聞いたことがあるけれど、私なんか根が疑い深くできているから、
12. ――本当かいな――
13. と首をかしげてしまう。異論を唱えると、いろいろまずいことが生じそうだから、形だけ
一致させている、と、そういうことではないのか。
14. 【7】これが私の
勘ちがいならば、まことにご
同慶にたえないが、
相撲協会はともかく、こうした気配を
漂わせている全員
一致も、世∵間にはけっしてまれではあるまい。わざわざ裁決を必要とするような案件ならば、一人や二人、異論を
挟む者がいるほうが自然である。
15. 【8】お話変わって、テレビの時局討論会などを聞いていると、司会者が、「イエスかノーかで答えてください」と言っているのに、長々と意見を述べる論者が多い。と言うより、この設問に対して「イエス」あるいは「ノー」のひとことで答えたケースを、私は見たことがない。
16. 【9】この設問に対する答えは「イエス」か「ノー」か、あるいは「この問題にはイエスかノーかで答えられません」か、この三つしかないと思うのだが、現実には、どれでもないことが
圧倒的に多いのである。
17. 【0】論者の本心を推測すれば、イエスかノーか答えはできているし、答えようと思えば答えられるのである。ただ、イエスの中にもいろいろなイエスがある。ノーの中にも同様にいろいろなノーがある。自分の心中を
尋ねてみて百対ゼロの確信でイエスが言える場合もあれば、五十五対四十五でからくもイエスに
傾いている場合もある。その内容はとても複雑だ。
18. にもかかわらず、「イエス」と答えたとたん、すべて百対ゼロのイエスのような印象をふりまくことになってしまう。その誤解を
避けるあまり、簡単に答えることができない。
19. 五十五対四十五の迷ったあげくのイエスと、四十五対五十五の迷ったあげくのノーとの間には、十ポイントのちがいしかない。
僅少差と言ってよい。さらに言えば、五十五対四十五のイエスは、百対ゼロのイエスより、ずっと四十五対五十五のノーに近いのである。が、結果的には、それもイエスのグループにまとめられてしまう。
20. この世にある、すべての困難な決断は、五十五対四十五と、四十五対五十五との間にある、と私は考えている。百対ゼロはおろか、七十対三十くらいの
状況だって、判断は明々白々、
悩むほどのことではない。五十五から四十五に至る
僅少の差異を……わずかな迷いをどう考えるか、この世の
悩みは、そこにある。こんなふうに考えてみると、全員
一致を
排除するパラドックスもおおいに意味を持つように思えてならない。 (
阿刀田高の文章による)