長文集  2月4週  ○人間は目ざめているかぎり、  yube-02-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:53:04
 人間は目ざめているかぎり、いつも頭のな
かに何かを描いています。もしここに一枚の
白いカンヴァスがあって、それに人間があれ
これ思い描くイメージが、そのまま映しださ
れるとしたら、いったい、その絵はどんな作
品になることか。人間の頭のなかほど神秘的
なものはない、と言ってもいいと思います。
 そこでいま、私は自分を実験台にして、自
分の頭のなかを正直に描いてみようと思いま
す。といっても、まさか白いカンヴァスに私
の頭のなかにあるイメージを映しだすわけに
はゆきません。やむを得ず、それを何とかこ
とばで書き記してみようと思うのです。
 ところが、このような試みは、けっして容
易ではありません。なぜなら人間が頭に思い
描いているものは、なかなかことばにならな
いからです。人間は何かを考える際に、こと
ばで考えています。ですから、考えているこ
とを、そのままことばにすることは、かんた
んのように思えますが、頭のなかで考えてい
るそのことばは、けっして完全なことばなの
ではなく、いわば、ことばの断片のようなも
のです。とぎれとぎれのことばが、浮かんだ
り、消えたりしてい る、と言ってもいいで
しょう。それを、そのまま原稿用紙に書き写
してみても、当人以外には、いや当人にとっ
てさえ、意味不明のことばの羅列になってし
まい、とうてい、理解できる文章にはなりま
せん。
 フランスの生理学者ポール・ショシャール
は、頭のなかで考えているそのようなことば
を「内言語」と呼んでいます。つまり、人間
はことばで何かを考えているのですが、その
ことばは、話したり書いたりすることばとは
ちがった「内言語」だ、というのです。した
がって、人間は、つねにふたつのことばを持
っているということになります。考えるとき
に使う「内言語」と、話したり書いたりする
ときに用いる通常のことば――ショシャール
それを「外言語」と名づけます――です。
 このふたつの言語は、一見、おなじように
思われますが、じつはそうではなく、両者は
まったく異質な脈絡のなかにあるのです。で
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すから、「思ったとおりに書け」と言われて
も、そうかんたんにゆきません。文章を書く
ということは、「内言語」を「外言語」に翻
訳することであり、その翻訳の作業が何より
も大変なのですから。
 しかし、人間の頭のなかには、ただ「内言
語」だけが漂っている∵わけではありません
。たしかに、抽象的な概念は「内言語」によ
って意識されていますが、そうした言語とと
もに、さまざまなイメージが明滅しているの
です。いや、言語よりも、イメージのほうが
主要部分を占めているように思われます。
 たとえば、あなたが、リンゴを食べたい、
と思ったとします。あるいは友だちに会おう
と考えたとする。その際、あなたの頭に、ま
ずリンゴということばが浮かんだのか、それ
ともリンゴのイメージが先に現れたのか。友
だちの顔が先か、友だちという言葉が最初 
か。私はいまそれを自分に即して考えてみた
のですが、どうも、はっきりしません。イメ
ージが先のようでもあるし、ことばがまず浮
かんだような気もします。
 このように、イメージといっても、きわめ
て漠然としており、さらによく考えてみると
、イメージは「内言語」と一体になっている
ようにも思えます。しかし、イメージの背後
に「内言語」があったとしても、あるいは「
内言語」の土台にイメージが形成されていた
としても、イメージと「内言語」とは、やは
りどこかちがってい る。イメージとは画像
のようなものであり、「内言語」とはことば
だからです。

(森本哲郎「ことばへの旅」)