長文 3.1週
1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】欧米おうべい語に対する社会一般いっぱん軽薄けいはく好奇こうき心を統制して大和やまと言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎きそがひろく日本精神の鼓吹こすいにあることはいうまでもない。基礎きそさえ出来れば外来語はおのずからかげをうすくするであろう。基礎きそが出来なくては何もならない。【2】基礎きそを前提すると共に基礎きその建設に貢献こうけんすべき言語統制の方法としては、文筆に携わるたずさ  ものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇こうき心を抑圧よくあつして直ちに適当な訳語をつくること、【3】またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾しきいきから駆逐くちくする事を計らなければならない。
3. いったん、外来語が社会的識閾しきいきへ上って常識化されてしまうと便利であるからだれしも使うようになる。【4】それ故に常識化されるまでに一般いっぱん的通用を阻止そしすることに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既にすで 言語の通貨となりすましてしまったならば贋金にせがねを根絶することに必死の努力を払うはら べきである。【5】失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆どほとん 駆逐くちくされたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐くちくされてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与えるあた  。【6】新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇こうき心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。
4. 【7】西洋哲学てつがくの術語などは明治以来諸先輩せんぱいの努力によって殆どほとん すべて翻訳ほんやくされ尽しつく ている。範疇はんちゅう当為とうい止揚しよう妥当だとうなどというむつかしい言葉も今日ではもう日用語になりきってしまった。∵【8】哲学てつがく上の言葉は概念的がいねんてき抽象ちゅうしょう的であるからある意味ではかえって翻訳ほんやくとその通用とが容易であるとも考えられる。すべて言語の内容が客観的知的である場合には翻訳ほんやくが成立しやすく、主観的情的である場合には翻訳ほんやくがうまくいかないことは事実である。
5. 【9】生活と密接な具体的関係にある言葉は雰囲気ふんいきの情調を満喫まんきつしていて他国語への翻訳ほんやくが困難であるには相違そういないが、それも程度の問題であって、外来語の国訳へ向って出来得る限りの努力が払わはら れなくてはならない。【0】知識階級が全面的に誠意ある努力をこの点に払うはら ならば必ず社会民衆が納得して使用するような新鮮味しんせんみある訳語が出来てくると信ずる。
6. 日本人は一日も早く西洋崇拝すうはい根柢こんていから断絶すべきである。ことに文筆の上で国民指導の位置にある学者と文士と新聞雑誌記者とが民族意識に深く目覚めて、国語の純化に努力し、外来語の排撃はいげき奮闘ふんとうし、社会の趣味しゅみを高きへ導くことを心掛けこころが なければならない。

7. 「外来語所感」(九鬼くき周造)より∵
8. 【1】学童のあそびには多くの想像力や抽象ちゅうしょう思考力がはいってくるからきわめて多彩たさいなものになる。すでに三さいごろからみとめられたことではあるが、低学年ではとくに「何なにごっこ」がさかんになる。【2】たとえば小学校一年の男の子二人は学校から帰ると必ずどちらかの家に行って、庭に大きなみかん箱をひきずり出し、めいめい一つの箱にはいって、自分たちはこのふねの船長なんだぞ、と言い合い、荒れるあ  海を航海するつもりになってさかんに体をゆすり、箱をガタガ夕させるあそびを「発明」した。【3】これがよほど気に入ったらしく、かなりの間、同じあそびを、いろいろと変化を加えながらくりかえしていた。七、八さいぐらいまでの子はあきずに同じ「ごっこ遊び」をくりかえす。しかもその度に本気でだれか他の人物になったつもりになり、たとえば右の場合ならそのたびに勇猛ゆうもう心や冒険ぼうけん心がこころに湧きわ あがるらしい。【4】箱がひっくりかえって少々のけがをしたところで、それはあそびをいっそうおもしろくするばかりである。女の子も勇ましいあそびに加わることがあるが、女の子同士だと、もっと静かでしばしばロマンティックなあそび、たとえば「おひめさまごっこ」などをする場合も少なくない。【5】いずれにせよ、同じこころの世界に遊んだ者同士として、こうした幼な友だちの味は一生忘れられないものとなる。おそらくそれはのちの交友、恋愛れんあい結婚けっこんなどという対人関係の基盤きばんをつくる力を持っているのであろう。
9. 【6】ボールあそびなどというものは、もっと幼いときから「心身の機能をはたらかせるもの」として行われていたが、小学校の上級になるほどチームを組んで、ルールを守るという本格的なゲームのかたちをとるようになる。【7】子どもたちがその発達に応じてどのようにルールを意識するか、をピアジェ(スイスの心理学者)はくわしく観察した。五さいごろまでは、ルールは少しも強制されたものとは子どもに感じられず、いわばただおもしろいモデルとしてうけとめられる。【8】五さい以後になるとルールは神聖でおかすべからざるものとして感じられる。ルールは大人がつくったもので、永久にそのままつづくものと子どもは思うので、ちょっとでもルールを変えようとすると重大な違反いはん、という印象を子どもに与えるあた  。【9】第三の最終段階になると、ルールというものはみなで協定を結んで作ったものだ、ということがわかってくるので、それをうけ入れるのは、いわ∵ば自分で自分に課したことで、外側から強制されたものとは感じられない。【0】ルールに従うのは集団に忠実であるためで、もしルールが望ましくないとなれば、みなで相談して変えることもできるのだ、というように考える。このような考えかたは十一さいか十二さいごろにやっと到達とうたつするもので、もうこれは大人の考えかたといってよい。このような考えのもとで行われるゲームをピアジェは「自律的ゲーム」と呼び、それ以前の「他律的ゲーム」と対比させている。
10. ゲームとは、あそびの一種にすぎないとはいえ、この種のあそび活動を通して社会的ルールを守ること、そのために他人と協力すること、つまり倫理りんりの基本的訓練が行われるのに注目しよう。修身の訓話よりもこうしたあそびの中で子どもの社会性が育って行くことを考えれば、それだけでもあそびの重要性がわかる。
11. さらに、あそびの中で想像性がゆたかに発揮されると、創造的活動にまでつながって行く。「ごっこあそび」もその萌芽ほうがだが、構想力、表現力が発達した子どもは、たとえば「ものがたりあそび」を早くから始める。夜ねる前のひととき、弟妹たちにおとぎ話を「発明」して話してきかせる子がある。それはしばしば「つづきもの」で、一人の主人公が、毎晩新しい経験や活動を行なう。幼児期の子には「お話」をきくのが大きなよろこびなので、みな一心に耳をすませ、主人公のよろこびや悲しみに一喜一憂いっきいちゆうしているうちに、語り手もきき手もいつの間にか眠りこんねむ   でしまう。ウルフ(イギリスの女流作家)はきわめて幼いころから、こうした「語り手」だったというが、のちに作家になるほどの人間でなくとも、学童期は、こうした空想の世界が花ひらく時代である。それは審美しんび的感情の発達ときわめて密接にむすびついている。子どもの多くが詩人的素質を示すのも、彼らかれ 新鮮しんせんな感受性と、奔放ほんぽうな空想力が発達するからであろう。これはうまく発達させれば、大人の卑小ひしょうな「現実」を乗り越えの こ させ、新しい精神の世界を生み出す基礎きそ能力となるのだから、大人はなるべくこの芽をつんでしまわないように、むしろ子どもから学ぶように心したいものだ。こうした面を発達させるために、学校の国語教育や作文の授業はきわめて大切な役割を持っているにちがいない。