1997年7-9月 第1週号 通算第529号

言葉の森新聞

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  勉強と意欲

 勉強をする上で大事なことは、意欲をもって取り組むことです。

 意欲を持つためには、主体的に取り組める条件があることが大切です。

 大学では、今、講義中の学生の私語の多さが問題になっているそうです。たぶん、先生の講義を、みんなで一緒にテレビでも見ているような気分で聴いているのでしょう。講義をただ黙って聴いているよりも、自分たちの興味ある話題を喋っていたほうがずっと楽しいというのは当然です。

 小中学校の勉強でも事情は同じです。子供たちの中には、授業よりもテストの時間のほうがいいという生徒もかなりいます。授業を受け身で聴くよりも、テストで問題を解くほうがずっと主体的でおもしろいからです。確かに授業によっては、子供たちをひきつけるような魅力のあるものもありますが、そういう授業をする先生は多くありません。また、いちばん楽しい授業は、その中で子供たちが自由に考えたり発言したりできるインタラクティブな授業ですが、これは、もう言葉の本来の意味で「授」業ではありません。こういう楽しい「授業」を何十人もの生徒を相手にやっていては、子供たちに基礎学力を身に付けさせるという面は逆におろそかになってしまいます。

将来の教育を考える場合、この意欲の問題にどう取り組むかが最も大きな課題になってきます。

  競争や賞罰よりも理想を

 競争や賞罰は、勉強の意欲を引き出すきっかけとしてそれなりに有効なものですが、同時に弊害も持っています。それは、競争や賞罰は、それ自体が目的になりがちだということです。つまり、競争に勝つことが目的で勉強の中身はそのための手段ということですから、安易に一夜漬けをしてテストが終わったら忘れるというような短期的な勉強になりやすいということです。また、競争や賞罰は、もともと人間の動物的な面を利用した意欲づけですから、そのことによって次第に、人間を育てるよりも動物を育てるような教育になってくるおそれがあります。

子供たちはかなり小さいころから、理想を理解する力を持っています。これは、ほかの動物にはないことです。犬に「お手」を教えるときに、「お手ができると、将来立派な犬になれるんだよ」といくらしみじみ説明しても、犬は不思議な顔をするだけでしょう。これに対して、子供たちに「勉強をして世の中の多くのことが理解できるようになることはとても楽しいことで、自分にも社会にも役立つとても価値あることなんだよ」と説明すれば、子供たちは小学三年生ぐらいでもそれなりに勉強の意味というものを理解します。こういう人間的な理解は即効性はありませんが、長続きのする意欲を生み出します。

これを逆に、「勉強したらごほうびをあげるからね」「勉強しなかったらおこづかい減らすからね」という動物的なところで意欲を引き出していると、子供たちの意欲はだんだん動物的で刹那的なものになってきます。(もちろん、こういうゲーム的な意欲づけも時には必要ですが、やりすぎるとよくないということです)

この両者の中間で、長期的な利益を目標に意欲を引き出すという方法は、時間がたってからマイナス面が出てくることがあります。「勉強したら、いい大学に入れるんだから」という目標を強調しすぎると、大学に入ったとたんに勉強しなくなるという状態になりがちです。このケースはかなり多いようです。中学受験などでも「受験勉強は大変だけど、合格したらゆっくり遊べるんだから」と言いすぎると、本当に、合格したとたんに遊び始めるようになってしまうことがあります。

中学三年生ぐらいになると、勉強の意味というものを自分なりに考える力がついてきます。それまでの時期に勉強の目的を話せるのは、やはり親しかいないと思います。また、こういう理念的な話は、母親よりも父親のほうが子供たちに訴える力があるようです。

  教え合う教育

文化祭というと、模擬店に人気があります。これは、買いに来る人よりも売っている人のほうが楽しいというのが特徴です。地域のお祭りでも、フリーマーケットでも同じです。買う人よりも売る人のほうがずっと生き生きしているのです。もちろん、死にそうな顔をしてタコ焼きを売っていても、だれも買いに来てくれないでしょうが。

勉強でも同じです。教えている人の方が生き生きしていて、教わる人の方は普通それほど生き生きしていません。勉強以外のゲームの攻略法などでも、教えてあげる側の方が教わる側よりもずっと楽しそうに話します。人間は、主体的であるときがいちばん生きているという実感を持てるのです。

今の授業は、明治以来の一斉講義というスタイルで成り立っています。これは、教材の数も種類もかぎられている時代に一律に基礎学力をつけるためにとられた一時的な方法でしたが、いつのまにかこの授業スタイルが唯一のものであるかのように考えられるようになってきました。

教材の流れが体系づけられていれば、本当は、子供たちが教え合うかたちの勉強の方がずっと意欲的に取り組めるものです。

中学や高校の部活動を見ていると、上級生が下級生に段階的に技術を教えるというかたちの自主的な活動をしているクラブは活気があります。教材や技術の体系がないところで子供たちどうしの自主的な運営をさせようとすると、ただのお喋りと混乱を招くだけですが、系統的な流れがあれば、指導者がいちいち「次はあれ、次はこれ」と指導するよりも、子供たちどうしで教え合う方がはるかに能率はいいようです。

こういう教え合う指導をすれば、教わる側も次は自分が教える側に回るわけですから、真剣に教わらざるを得ません。また、教える側は、責任をもって教えるわけですから、教える知識や技術を確実に自分のものにしておかなければなりません。

興味をもってやることについては、子供たちは驚くような集中力と持続力を発揮します。人間の場合、興味の源泉はモノではなくやはり人間です。これは、犬の興味の源泉が犬であり、猫の興味の源泉が猫だということと同じ普遍的な真理です。人間は、モノをもとにした利益で動くよりも、人間との出会いやふれあいをきっかけにしてより意欲的に動くものだと思います。

言葉の森も、この教え合う勉強ができるように、これからの教材作りを進めていきたいと思っています。

  新学期は7月1日スタート

新学期は、7月1日からスタートします。

これまでの学期の古い課題集、作文用紙、自習用紙、ひとこと用紙は、本棚の奥にかたづけておいてください。第1週目の作文を送るときだけは、これまで使っていた自習用紙を封筒がわりにして使ってもかまいません。

第1週は、「広場」を入れていませんので、投票の欄には何も書かなくて結構です。学年の「広場」は、第2週から送ります。

課題フォルダの下のほうについている「週・風・鳥・林……」などと書いてある表は、先生が評価をする際に使うものです。生徒のみなさんには、関係がありません。

6月10日までに図書の返却のすんでいる人には新しい貸出図書が2冊送られています。図書のコードが「な」「ぬ」「は」「む」「や」「ゆ」の人には、この2冊のほかに、もう1冊問題集も送られています。この問題集は、問題を解くためではなく、中の問題文を読書のかわりに読むために使ってください。

7月から、自習点と広場点の評価のかわりに、材料点(題材のおもしろさ)と着想点(表現や主題のおもしろさ)の評価が新しく付け加えられます。「字数・構成・題材・表現・主題・表記」などの表現項目の評価はこれまでと同じです。項目表を見て、「いちばん……なのは」「長い会話」「まるで……よう」「どうして」などの表現項目が入るように意識して書くとともに、中身のおもしろい作文を書くように心がけていきましょう。

「長文集」は縦に長く行間が狭いので読みにくいと思いますが、定規などを横において読むようにしていくとよいと思います。また、読めない漢字がある場合は、本人に辞書で調べさせたり、あらかじめルビをふったりするよりも、読んでいるその場で、近くにいるお父さんやお母さんが読み方を教えてあげてくださるとよいと思います。また、意味などがよくわからない場合は、長文のその箇所に印をつけておき、担当の先生の電話のときにまとめて聞いてくださっても結構です。