http://www.mmjp.or.jp/shine/ 1999年1月4週号 通算第603号 shine@japan.email.ne.jp

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  1月4週は清書 

 1月4週は清書です。担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、清書用紙に清書してください。清書はできるだけファクスではなく郵便で送ってください。

 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するようなものがない場合もあります。そのときは、清書用紙に直接自由な題名で作文を書いて送ってください。

 清書の仕方は、課題集の中の「学習の手引」に書いてあります。名前を載せてほしくない人は、表には名前を書かずに裏に書いてください。また、清書用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。

 この清書は、全員の分を2月ごろから順に掲載し、インターネットに掲載し、そのあと新聞社に送ります。(新聞社に送ることを希望しない人はその旨を清書用紙の裏に書いておいてください)

 毎月、せっかくいい作文を書いていても裏に学校名が書いていないために新聞社に送れない作文がたくさんあります。

 新聞への応募を希望する小学生のみなさんは、清書用紙の裏に必ず学校名を書いておいてください

  来週、2.1週のヒント

  小3〜6年生 2.1週 手作りで何かを作ったこと

 図工の時間に何かを作ったことや、家で料理を作ったことなどが中心になると思います。でも、インスタントラーメンを作ったなんていうのは、手作りにはあまり入らないかもしれませんね。雪のふるところに住んでいる人は、雪だるまやかまくらを作ったことなども書けるでしょう。

 小5・6年生のことわざは、「12、急がば回れ」「44、怪我の功名」「71、過ぎたるは及ばざるがごとし」などが使えると思いますが、自分の感想の部分に合わせて考えていきましょう。

 「手作りで何かを作ったこと」という題名で書きにくい場合は「節分」という題名で書いてもいいでしょう。

  中学生〜社会人 2.1週 芸術と点数

 美術や音楽に点数がつけられるか、というのがテーマです。作文に点数がつけられるか、ということもあわせて考えられそうです(つけてるけど)。

 芸術に点数をつけられないというひとつの理由は、芸術はもともと評価されるものではないということがあります。ピカソなども登場したばかりのころはほとんどの人から酷評されました。「どうして顔が横を向いているのに、体が正面を向いているんだ」とかね。

 芸術に点数をつけられないもうひとつの理由は、芸術は本来楽しむためのものだからということがあります。音楽の成績が5でも1でもかまわないから、要するにカラオケなどで音楽を楽しむことができればいいのだという考えです。反対理解としては、技術的な進歩は、それなりの指導と評価によって達成されるということになるでしょう。

 昔話ではありませんが、雪舟が子供のころ涙でネズミの絵をかいたなんて話は使えそうです。よく登場する「桃太郎」ですが、芸術はその人の個性を発揮するものだというところから、犬とサルとキジに共通の点数をつけることはできない、などと結び付けてもいいと思います。

  文章力のある子は余力がある 

 大学入学後の学力の伸びを見ると、教科の成績で入った生徒よりも、小論文の成績で入った生徒の方が、学力が大きく伸びる傾向があります。

 これは、小論文の成績がいい生徒は、学力に余裕があるからだと思われます。

 いい文章を書くためには、本を読んだりものを考えたりする時間が必要です。また、もちろん文章を書く時間も必要です。こういう読んだり書いたり考えたりする時間というものは、テスト前の勉強のように狭い目的を持って時間に追われてやるものではありませんから、どうしてものんびりした印象を与えがちです。そうすると、中には、「そんなにのんびり本なんか読んでいないで、漢字のひとつでも覚えなさい」などと言われる子も出てきます。

 成績が同じであれば、勉強ばかりをしてかろうじてその成績である子と、本を読んだり文章を書いたりする時間があってなおかつその成績である子と、どちらに余力があるかは明らかです。

 似た話は、絵をかくことにも見られます。いろいろな生徒を見ていると、絵をかくのが好きな子は、文章の内容もおもしろいことが多く、勉強力にも余裕があるようです。しかし、こういう生徒は、勉強を本格的に開始するまでは、実力よりも成績が低いことが多いのも事実です。

 大学の入学試験でも、その時点の学力を評価するだけでなく、学力の余力を見るために、教科のテスト以外に絵をかくテストなどを取り入れるといいと思います。たとえば、「次の文章を読んで、要約とあなたの意見を四コマ漫画を書きなさい」というようなテストです。小論文の採点と違って、採点者の負担もずっと少なくなるでしょう。

無料体験学習 受付中

■作文の通信指導が無料で体験できます。

■ご兄弟やお友達にお知らせください。

 言葉の森で、新年度に向けて無料体験学習をおこないます。教室での勉強の雰囲気を知っていただくための体験学習ですので、今回の体験学習期間は1回です。体験学習のあとの作品と講評は郵送でお送りします。

 この機会に、ご兄弟やお友達に体験学習をお知らせください。

 ●体験学習の進め方

(1)ご希望の曜日と時間を決めてご連絡ください。(※1)

(2)無料体験学習用の教材が届きます。

(3)担当の先生から第1回の電話説明があります。(電話説明の時間は10分程度)

(4)作文を書きます。(書いている途中も電話で質問できます)

(5)作文を提出します。(ファクスの場合はその日のうちに、郵送の場合は翌日の午前中までにお願いします)

(6)翌週、作文が返却されます。(郵便の事情で返却が遅れる場合があります)

(7)担当の先生から第2回の電話説明があります。(これで体験学習は終了です)

 以上は、通常の授業と同じ流れです。体験学習の終了後、継続して受講を申し込まれる場合はあらためてご連絡ください。

 (※1)ご希望の曜日と時間は下記の時間帯の中で、「火曜18:20」のように10分単位でお決めください。また、子どもさんは最初に説明を受けた先生に親しみを持つことが多いので、継続して受講される場合も同じ曜日と時間で続けられるような時間を決めてくださるとよいと思います。

■授業 平日16:00〜21:00 土曜13:30〜17:00

 (この時間帯の範囲で授業を受ける時間を自由に選べます)

 

  増える小論文入試 

 現在、大学入試では、作文小論文の試験を課すところが増えています。また、会社でも入社試験で文章力を重視するところが増えています。

 文章を読んだり書いたりする力は、質の高い文章を読み、質の高いテーマを考えることによって長い時間をかけて身につくものです。普段から、社会や科学や人間について考えていなければ、即席で力をつけることはできません。

 最近では、知識偏重の受験勉強への反省から、公立高校の入試に作文を取り入れる都道府県も増えています。

 文章を読み、書き、考える力は、これからますます重要になってくるでしょう。

 

  光る表現コーナー

山田さん(ふれ/小1)の作文より(ゆり先生/1.2週)

 おかあさんのはごいたとわたしのはごいたは音がぜんぜんちがうようなきがしました。評:おもしろいことにきがついたんだね。きっとうち方がちがうからなんだろうね。

福田さん(わら/小1)の作文より(あかね先生/1.2週)

 かえるは、ふゆになるととうみんします。<中略>また、あおうねうしがえるくん。(評)うしがえるによびかけることで、生き物をかわいがるきもちが、とてもよくあらわれています。

しょうたさん(あたの/小2)の作文より(もとばと先生/1.2週)

 (おしるこのおかわりをしようとしたら)「だめ。」というこえがきこえました。ぼくがおばさんだったらもっといれてると思います。評:おいしいおしるこがおかわりできないなんてという正直な感想が書けましたね

宇佐美さん(せや/小2)の作文より(あかね先生/1.2週)

 ぼくはぶらんこ(の一回転)で、みんなぼうそうぞくみたいにやっていて、「いくぜっ」「やっほ(くりかえす)」といっています。(評)ぼうぞうぞくみたいに、スピードをだしてぶらんこにのるようす、よくつたわってきます。(^^;

佐藤さん(られ/小2)の作文より(あかね先生/1.2週)

 (ドッジボールの大きさは)「わたしは低学年なのでいちばん小さくて大人の顔の半分を丸くした形くらいです。」(評)本当に小さいんだね。とてもわかりやすいたとえだね。

プリンさん(あえは/小3)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 夜中の十二時だったので、お母さんが、おさいせんをして、行ったしるしをもらいました。十二時じゃないともらえないそうです。それを神だなにおくそうです。評:初詣に行って、お正月のことをいろいろ教えてもらったのですね。

ゆりさん(あおへ/小3)の作文より(かつみ先生/1.1週)

 すいていたので、いつも、二時間ぐらいかかるのに、一時間すぎたぐらいでつきました。 評:時間が具体的に書いてあったので、イメージがつきましたよ。この一時間の差は大きいよね。先生も車で移動することがあるので、本当にすいていたんだな、と思いました。

荘司さん(すふ/小3)の作文より(あかね先生/1.2週)

 ("どろけい"でつかまってばかりなので)「せけーよー。」といったら「くつがめだつんだもん。」といったからぼくが、「きいろのくつはかなければよかった。」と思いました。そんした。でもたのしかった。(評)最後の、「そんした。でもたのしかった。」という一言が、すべてをものがたっていますね!

飯田さん(あいい/小4)の作文より(かつみ先生/1.1週)

 その日、わたしはうれしくて、にこにこしながら、ファックスをおくりました。 評:にこにこしながら、っていうところがいいです。読んでいる先生までにこにこしてきます。人を幸せにするような表現だね。花◎です。

信長さん(あえほ/小4)の作文より(かつみ先生/1.1週)

 「指紋とり大変だのカッレ君」(題名) 評:感想文の題名は、とかく「ももたろうを読んで」など〜を読んで、というパターンが多いのですが、龍之介君はいつもおもしろい題名をつけてくれるよね。毎回楽しみにしているんだよ。これからも、ひとひねりした題名を考えてね。

山本さん(あきき/小4)の作文より(スズラン先生/1.2週)

 「学級委員になりたい人。」と言いました。そのとき、私は、だれがなるのかなぁと思って、どきどきしていました。評:新しい委員を決めるときの気持ちがでていますね。

はるピーさん(あたね/小4)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 一番大切にしている貝は、ウラシマガイという名前の貝です。白色で、うずらの玉子ぐらいの大きさです。評:どんな貝か、よくわかるたとえですね。

コナン3さん(あたも/小4)の作文より(あかね先生/1.2週)

 (三時間目の国語の用意を忘れたぼくには)十一時三十五分、最あくのこの時間が始まりました。「三時間目は、まず係りと代表を決めます。」「やっっっっった〜〜〜〜〜。」みんながじろじろみています。(評)国語の用意を忘れてドキドキしていたのに、国語がなかったときのホッとした気持ちがとてもよくあらわされています。

邱さん(あてゆ/小4)の作文より(かつみ先生/1.1週)

 3分間で7歩くらいしかあるけません。 評:大変混んでいたことがよくわかります。

川村さん(との/小5)の作文より(ひまわり先生/1.1週)

 ぼくたちは生まれた時から人間であるとともに一つの宝物でもある。(評)宝物について、じっくりと考えてみたね。

ミッキーさん(けく/小4)の作文より(かつみ先生/1.2週)

 私たちは、しんかんせんのようにすごいスピードでいきました。 評:よっぽどうさぎにさわりたかったんだね。美紀ちゃんの動物好きが、この表現からも伝わってきますよ。

 でもこの宝物にじゅみょうがあることがいやです。 評:寿命があるからこそ、愛せるのかもしれないよ。だって、いつまでも生きている、(ずいぶん長く生きている)地球という星を私達は愛していないから、環境破壊が続いているのかもしれないね。美紀ちゃんという人間も、最期があるから一生懸命生きるのだし、お母さんも少しでも長く生きてほしいから、一生懸命愛情をかけるんだよね。

はみちゃんさん(あすよ/小5)の作文より(かつみ先生/1.1週)

 幼稚園の時は、お手玉や、おはじきなどでしたが、成長するに当たって、どんどん宝物も違ってきます。 評:こういうことに気付くことが、さすがです。10年生きていた証だね。先生もどんどん変わってきたな。どのように変わってきたかが書いてあるとさらに良かったね。

パリパリさん(にみ/小6)の作文より(スズラン先生/1.2週)

 良いタイミングというのは、なかなかやってこないものである。これは、運ということもあるが、もとがないのでは、話にならない。石の上にも三年、というように、辛抱して待つことが一番大事なのだと思う。評:題名の、「進歩してつかむタイミング」ということと合わせて、そっ啄の機を考えているところでしたね。

和泉さん(えり/中1)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 本当に豊かな人とは、人と人とのつながりを多く持つ人だろう。評:自分を理解してくれる人に恵まれるということが、大きな財産にもなりますね。

あずささん(あすな/中3)の作文より(ゆり先生/1.1週)

 THAT'S玉の輿風シンデレラになりたい女の子は沢山いるが、シンデレラのように優しい女の子がたくさんいないのは、現代が作ってしまった社会のせいであり、(後略)評:鋭い視点だね。

  郵便ポストより

 パソコンで書いてインターネットから送られたパソコンは、郵便ポストというページに最新40件が掲載されています。

 その中の作文のいくつかを紹介します。インターネットに接続できる人は、作文を書き出す前に、同じ学年のほかの人の作文を読んでみると参考になると思います。書いた人のページに、感想を書くこともできます。

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「無知と知識」

 永い間、知識とは無知に付け加えられ、積み重ねられたものでありしたがってより多く知ることがより真理に近づくことだと考えられてきた。ところが事実は必ずしもそうとばかりにはならずに、ものを多く知ること、多くの知識を持つことのよって、かえって私達の一人一人は在るがままにものを見ることができなくなるという事態が生ずるようになった。

専門家たちはすぐレッテルをはってものを見ようとするしかし、「裸の人間」は専門的知識を持たない代わりに専門的知識によって囚われることのない「裸の眼」を持って相手に接することができるのだ。

 この前、老人ホームに時々犬や猫を連れて行き一緒に遊ばせる。というニュースをテレビで見た。その時を毎回楽しみに待つお年寄りや、普段は元気がなくてもその時はとっても元気で生き生きしている表情を見せるお年寄りもいた。犬や猫などの動物には不思議な力があるらしい。他にもショックで口の聞けない子供が動物とふれあうことにより心を開いて前のように話せるようになった。という話を聞いたことがある。このようにかえって専門家より無知の人間(動物)の方が新しく新鮮な眼で見、考え、行動をとりその結果、新しい発見や正しい判断が出できる場合もあるのだ。

 しかし、「三匹のこぶた」のお話の中で、三番目のこぶたがちゃんとした知識を持っていたために助かった。ということにもあるように、知識がなければ大変なことのなる場合も大変多い。「裸の人間」の眼だけではやはり足りない部分もあるし、「専門家」の眼だけではすぐレッテルを貼られやすい。

 どちらか片方の眼だけを見ず両方の眼の調和を考えていくべきである。無知は知識の生みの親なのだから調和できないはずはない、と私は考える

 

松井玲子 ● asowaより ● 課題コード10413 99/01/21 20:07:34

 

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現在、子供の

 夜空を見ながら女の子が父親に言いました。「あの星を取って。」すると父親が言いました。「あれは遠すぎて取れないよ。」父親はそう言うと帰ってしまいました。女の子が一人残って泣いていると地面がもそもそと動いてモグラが出てきて言いました。「君は地球と言う星の上に立っているんだ。綺麗じゃないけどこれは星のかけらさ。」女の子は土を受け取ると大喜びで帰りました。

 これは私が子供の時に読んだ童話であるが、父親は星が遠くにあるために取れないことを「知っていた」。それゆえ自分が星の上に立っていることを「知らなかった」のである。このようなことは現実の世界にも良くある。和同開珎より古い可能性が高いと新聞を賑わせている富本銭だが発見されたのは30年ほど前で、発見者が博物館に問い合わせたところ江戸時代に作られたものが紛れ込んだものだという鑑定だったという。専門家の知識によるレッテル張りは実は視野を狭めただけで何も解決しないことも多いであろう。あらゆる人が何らかの専門家である現在、全ての人が一素人ととして社会にアプローチしていくことが大切であろう。

 ではどうすれば良いのか。それは自分の専門分野についても「不明」と言う枠を作ってやることだ。何もかも自分の専門知識で解決しようとすると、靴べらでなんでも押し込んでしまうことが起こりやすい。古生物学者のウォルコットはカンブリア期の正体不明の生物をほとんど節足動物に分類しようとした。「不明」という選択肢をもうけてやることで専門外の人の意見を聞く余裕が生まれる。

 それと同時に我々が一素人としていろいろなことに目を通し、疑問意識を持つことが大切であろう。「知っている」からこそ疑うことが大切である。簡単な例を示せば地動説を疑ったことがあるだろうか。天動説が間違っているのが地球が止まっていないからだとすると、太陽も銀河系の中心に対して回っているのだから地動説も間違いになってしまう。結局のところ地動説も天動説も何処を止めて考えるかの違いであって両方正しいのではあるまいか。目が見えるがために風が見えないとは多い。専門家のレッテル張りが問題だと言いながら専門家の言うことを無条件に受け入れている我々の姿勢も問題であろう。

 確かに専門家のレッテル張りが必要なことも認めなければならない。我々は言葉によって物事を認識する。パニック障害という医学用語が出来て初めてその医学的な研究が本格的に始められたという事実もある。しかし専門知識によるレッテル張りが実質的な意味を持たず、形式的なものとなっていることは非常に多い。かといって専門性を低くすることがこれからの展望を開くとも思えない。これから必要なのは父親とモグラが共に考えていける社会であろう。

 

冨田武照 ● ayoより ● 課題コード10413 99/01/21 19:30:14

 

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その昔、サングラスを

 「○○、ちゃんと座って先生の話を聞きなさい。」私が小学生であった時、塾では時々こんな放送が入った。教室の隅にはカンニング防止の為のビデオカメラが設置されていたからである。現在、私達の知らないところでいたるところにカメラが設置されている。ふらっと立ち寄るコンビニの中でも、毎日のように使う駅でも我々はカメラによって監視されているのである。「悪いことを何もしていないなら自由にさせてやるからビデオの前に堂々と顔をさらしなさい」ということなのだろう。このような「飼い犬の自由」が我々の個人的な空間を縮小させてきたのである。現在、インターネットなどの匿名性に人々が飛びつくのは自分をさらさない場所、「管理されない自由」が減ってきている何よりの証だろう。

 しかしインターネットがなんでもありの無法地帯と化しているのを見れば分かるように「管理されない自由」が犯罪を助長している面があるのも事実である。みんながストッキングを頭にかぶって歩いていれば強盗も見分けがつきにくくなる。匿名性と犯罪防止をいかに両立させていくかが大切であろう。

 ではどうすれば良いのであろうか。個人個人がもっと多様化した「管理されない自由」を持つことが大切であろう。現在、個人的空間があまりに減ってきているが為に自分をさらさない場所が画一化し過ぎている。その為にその一種、溜まり場のような中で社会問題も起こりやすい。それぞれがもっと多様な個人的空間を持てれば犯罪が社会問題にまで進展することはずっと少なくなるのではなかろうか。

 しかし現実の社会では犯罪の防止のためとなるとすぐに規制を考える。朝日新聞の投書欄に次のような文章が載っていた。「インターネットを通して薬品を買い自殺した事件でインターネットがだいぶ非難されていますが私の悩みを打ち明ける場所はインターネットしかないのです。」匿名性がかかわる社会問題の原因は一般にいわれるように「コンピュータがハイテク機器だから」でも「近頃の若者だから」でもないことを考えるべきだろう。「管理されない自由」に管理を持ち込むことは、いたちごっことなるだけで根本的な解決にはならないであろう。

 確かに管理された自由というのも大切であろう。管理されない自由ばかりがはびこった社会というのは犯罪の絶えない無秩序の社会であろう。しかし人間には個人的な空間が必ず必要である。秩序を守るために駐車違反はすべて取り締まり現行犯は逮捕とかいう社会は危険である。綺麗すぎる川より濁った川のようが魚は住みやすい。ある程度は大目に見るといった「余裕」のある社会というのが大切であろう。この管理社会の中ではもっと「管理されない自由」が必要である。塾で休み時間にビデオカメラを紙でふさいで黒板に皆で落書きしたことを思い出す。

 

冨田武照 ● ayoより ● 課題コード10412 99/01/20 19:37:54

 

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ラレル

 ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつに良く働く勤勉な助動詞である。ら抜き言葉は、頻繁に現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働き者で、四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側の私たちから見ると、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさい助動詞だということになる。可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜きのレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもあるかもしれない。いずれにしても、ら抜き言葉を認めるかどうかは、二十世紀日本語の重大問題の一つにはちがいない。ら抜き言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし、次第に多く使われるようになってきたのである。しかし、言語というものはその本質において保守的なものである。

 ら抜き言葉というものは、しばらくすると正しい日本語ということになる。時代は変わるから言葉も変わるものである。昔も江戸時代の武士が「ござる」と言っていたのが時代が変わるにつれて言葉も変わった。テレビで若いキャスターがら抜き言葉を使っていたのでベテランのキャスターが、さりげなく言い直していたということが朝日新聞の声欄に載っていた。そして若いキャスターも言い直したと言う。テレビは、どこにでも放映されるので人に対する影響が大きい。だからこういうことは良いと思う。

 昔話で姥捨て山というお話があるが古い人間は姥捨て山に捨てられてしまう話である。この話を聞くと今も昔もふるいものは新しいものにやられるということである。ヨーロッパの宗教でいえばキリスト教の新教(プロテスタント)、旧教(カトリック)も同じようで新教がキリスト教を占めるようになった。

 本題に戻るが確かに古い言語も大事だが新しい言語も大事である。時代は変わるからそれに伴いいろいろなことも変わるのが必要だ。そのうち新しい風潮が正しい事になってくる。「いかに飽きずに続けるかではなく、飽きることとをいかに両立させるかということが大切だ」という言葉もあるように、古い言語を変えていくことも大切だが残すことも非常に大切である。しかし、時代の流れには逆らえないということを分かっていなくてはならない。

 

紫電改 ● unoより ● 課題コード08414 99/01/19 17:11:31

 

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ソクラテスを読んで

ソクラテスは、自分は知識のある人間やかしこい人間ではないと考えていた。ソクラテスはことばの本当の意味で自分は哲学者だと名乗ったんだ。哲学者は自分があまりものを知らないということを知っている。だからこそ哲学者は本当の認識を手に入れようといつも心がけている。彼は思い込みが強くてかたくなでもなかったし、どうでもいいと思ってもいなかった。そしてそのことを思いつめていた。それでソクラテスは哲学者になったのだ。あきらめない人、知恵を手にいれようとあくことなく努める人に。

「どうしよう、、、、、、。」

ある算数の授業で、私は一問の問題が分からなくて困っていた。先生にも恥ずかしくて聞く勇気がなかった。そうしたら、

「どうしたの。」

と、友達に聞かれた。訳を話したら、その友達は親切に教えてくれた。そして、その問題はテストでも間違えなくてすんだということだ。まさに<聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥>である。

やはり、物事を知る時には、まず自分が知らないということを認めることが始まりなんだと思う。

 

はるる ● kuaより ● 課題コード05413 99/01/18 19:33:31

 

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私の不思議

 不思議といえば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。そのふしぎを分からせるものは主に児童文学があげられる。この児童文学で学び取ったものが、自分の人生にいかせれば自分だけの物語がつくれるのだ。しかし、現代の人達は他のことに重要性を示し、自分だけの物語をつくろうとはしない。例を挙げてみれば、成績や体重など。誰にでもできるものに重要性を感じてしまうのだ。

 実際に、成績表が返される時はすごく緊張し、成績が悪かったらそれなりに落ち込むだろう。また、よかった時は素直に喜んでしまう。これは数字(順位)を気にしている証拠だ。順位を上げることは確かに必要だろう。しかし、数字だけにとらわれる人生は、大人になった時に後悔するばかりだ。自分にしかできないものを見つけることが、自分にとっての最大の目標ではないだろうか。

 その自分だけの物語をつくるためには先ほどもあげたように、児童文学を読むことが必要となってくる。その児童文学を読み、感動するということは、その本の作者の生き方に共感し、自分の生き方を代えるということである。私が、このようなすばらしい本に出会えたのは、小学生のころだった。「走れメロス」を読んだ直後、私は言葉にならない感動をうけたのだ。友達のために命をはれることはそう簡単にはできない。この本を読んだ後、まだ、表面的には変われていないが、内面的には少し考え方が変わったような気がする。

 成績をきにするのも、自分だけの物語をつくるのも自分にとってはとても重要なことだ。しかし、自分にとって一番大切なことは、自分自身を良いほうに代え、後悔しない人生をおくることだ。いかに「わたし」という人間をみつけられるかということが、これからの人生の良い、悪いにかかわってくるのであろう。

 

りさ ● aisuより ● 課題コード08412 99/01/16 17:34:31