http://www.mmjp.or.jp/shine/ 1999年2月2週号 通算第605号 shine@japan.email.ne.jp

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  2.2週のヒント(再掲)

  小5・6年生 2.2週 チョウチンアンコウは

 日本の近海には、まだ不思議な生物がたくさんいます。科学がこれだけ進歩しても、まだ深海魚などをうまく飼育できないというのは不思議な気がしますね。

 似た話は、飼っている生き物のことなどが書けそうです。カエルや鳥などの小動物や昆虫は、自然界の中では何億年もたくましく生き続けていますが、それを人間が飼育しようとすると、とたんに弱々しい生き物になってしまいます。自然と同じ環境を人工的に作るのはまだむずかしいのでしょう。

  中学生 2.2週 中学生

 シンプルな生活で生きるほうが心豊かに生きられるというのがテーマです。自動ドアとか自動販売機とか、考えてみると、なくても別に不自由しないものが身の回りにたくさんありそうですね。

 イソップ童話に「シカとライオン」の話があります。立派な角を自慢し、細い脚を嘆いていたシカがライオンに追われ、やぶの中で角が枝にからんで動けなくなってしまうという話です。知っているかな。

 手に触れるものを何でも金に変えることを望んだ王様もいました。逆に貧しい人たちに自分の目の宝石などを次々に与えていった王子の像もありました。

 昔話や童話をよく知らないという人は、毎度おなじみの「桃太郎」や「浦島太郎」でがんばってみましょう。犬やサルやキジがわずかなきび団子で桃太郎の味方になったのは、きび団子というモノそのものの価値でなく、やはり桃太郎の心意気に引かれたからでしょう。竜宮城でのタイやヒラメの舞踊りも過ぎ去ってみれば空しいものだというふうに引用することもできそうです。

  高大社 2.2週 魏志倭人伝によると

 時は時計の針で表される単なる座標なのではなく、それ自体が生きたひとつの「もの」なのだ、というのがテーマです。かけがえのない時は、人によって違います。現代の社会では、決められた定刻どおりに事を進ませるのでなければ文明人とは呼べません。もし電車やバスの運転手が、「夕焼けがあまりにもきれいだから今日の運転はやめよう」などと言ったら乗客は怒り出すでしょう。(インドでは、牛が動くまでバスを停めておくこともあるらしいのですが)

 小学校の勉強などを見ていても、せっかく熱中している図工を一時間で仕上げて、次は算数などという勉強の仕方が多いと思います。子供は、座標としての時ではなく生きた時を生きているので、こういうこまぎれの時間割に慣れるまでが大変です。

 時計を持たない動物は、おなかがすいたら食べて、眠くなったら寝ています。ロビンソンクルーソーは、漂流してたどり着いた島で、まず日付がわかるようにカレンダーを作りました。ここが人間の大人と動物の違うところです。子供はまだ動物に似ているので、大人からいつも「早くしなさい」「次はこれで」「その次はさっさとあれをして」と言われ続けています。ピーターパンやドラえもんなどは、そういう子供の世界の感覚をよく表していると思います。

  2.3週のヒント(予告:2.3週はちょっと早めですが、作文のテストです)

  小3・4年生 2.3週 先生は

 長文集の4ページと5ページは続いています。2.3週はその5ページの方の長文ですが、その前の4ページと合わせて読むと内容がよくわかります。似た話は、「わすれものをしたこと」「やさしい先生のこと」「うそをつくつもりでないのにうそになってしまったこと」「失敗をして学校をやすみたくなったこと」「先生におこられたこと」などが書けると思います。

  小5・6年生 2.3週 島に住む動物と

 島では、ゾウは小さくなりネズミは大きくなるという法則があるそうです。日本も島国ですから、日本に住んでいる野生の動物は、ウサギやサルやタヌキが中心で、せいぜい大きくてもシカやクマどまりです。これがアフリカのような大きな大陸になると、ゾウとかキリンとかカバとかサイとかゴリラが住めるようになってきます。日本の山にゾウやキリンが住んでいたら、せまくて大変でしょうね。身近なところではあまり経験はないかもしれませんが、大きな集団になると、ピンからキリまでいろいろな人が出てきます。スポーツなどをしている人は、大きな大会に参加するとすごい選手がいたので驚いたという経験があるかもしれませんね。

 ことわざは、「16、井の中の蛙、大海を知らず」など。井戸の中にいると、小さなカエルでも自分がいちばんえらくて大きい生き物のように思ってしまうのかもしれません。

  中学生 2.3週 父が父で

 父親の役割とは、子供に文化や社会規範を伝えることだ、というのテーマです。価値観を伝える父親像というのは、現代では少なくなりましたが、歴史を見ると、父親というのはいつも無理を承知でやせ我慢という役割を果たしていたようです。

 昔話ではありませんが、有名なのは「巨人の星」の父親、星一徹です。大リーガー養成ギブスなどは一徹の価値観をよく表しています。桃太郎が鬼退治に行くことをおじいさんとおばあさんに告げたとき、おじいさん(父親の役)とおばあさん(母親の役)がそれぞれどんなことを桃太郎に言ったか想像してみてもおもしろいと思います。おばあさんは、「そんなところにわざわざ行かなくても、ここで楽しくくらしていれば」と引き止めたでしょうが、おじいさんは、「どんなに苦しくても見事に鬼を退治するまでは戻ってくるな」などと言ったかなあ……。

  高大社 2.3週 コンピュータにかぎらず

 コンピュータは単なる道具である。道具に人間が合わせるのではなく、人間に道具が合わせるべきだ、というのが筆者の主張です。日ごろコンピュータに振り回されている人は大いに共感するでしょう。

 こういう目で見てみると、世の中には、道具に人間が合わせている例がたくさんあります。自動車の運転で、運転手がいちいちブレーキを踏んだりハンドルを回したりするのなども、本当は車が自分で勝手にやってくれるようになればいいのです。そうすれば不注意による事故なども少なくなるでしょう。その研究はすでに実際に進んでいますが。そのうち、人間のすることは目的地を車に告げてあとは寝ているだけということになるかもしれません。

 昔話で、ベッドの長さに合わせて人間を切って寝かせたという人の話を知っているかな。知らない場合は、桃太郎(おいおい)。村を荒らしまわっている鬼という環境に合わせていたのがそれまでの村人でした。桃太郎は、環境に人間が合わせるのではなく、人間が自分たちの住みやすいように環境を変えていくべきだと考えて、鬼退治に出かけたのです。環境を道具と言いかえれば、あてはまりそうでしょ。

  書くことが同じなのは進歩がないため 

 中高生でよく、次のように言う人がいます。「先生、この前も同じ実例で書いちゃったんですけどいいですか」「いつも、同じような意見になるんですけどいいですか」

 小学生でも、似た例はあります。「私の夢」という題名で作文を書くときに、「先生、去年も同じ題名で書いたことがあるので、もう書くことがないんですけど」

 同じことしか書けないのは、実はその人に進歩がないからです。進歩がない大きな原因のひとつは、読書の不足です。読書をしていれば、材料も意見も日々成長していきます。読書をせずに、あるいは軽い雑誌や小説のような読書しかせずに毎日の生活に追われていれば、次第に同じことしか書けなくなってきます。

 たくさん本を読み、たくさん考えて、いつも新しい題材や意見で作文が書けるようにしていきましょう。

  食べ物の好き嫌いと人生観 

 食べ物に好き嫌いがある人は、人間関係にもその好き嫌いの激しさが出てくるようです。

 逆に言えば、偏った人間観や世界観を持たないようにするためには、まずコントロールしやすい食べ物から偏らないようにするという方法が考えられると思います。

 いま、躾(しつけ)というものが見直されています。父親が立派なのに子供がぐうたらでというケースは世の中にはよくありますが、母親が立派なのに子供がどうしようもないというケースはあまりありません。父親は理屈で子供を教育しようとするだけですが、本当に子供に影響があるのは、母親の日々の躾による教育です。躾というのは、朝起きたらあいさつをする、使ったものは元の場所にしまう、身の回りをきれいにしておく、など、言葉で理解するものでなく身体で覚えるものです。

 人生観や世界観のような高度な話も、その基礎には、日々の生活の仕方が反映しているのでしょう。

  効用と美 

 現代社会に生きていると、効用ということをまず第一に考えがちです。効用を別のことばで言いかえればお金に換算していくらになることだということです。

 社会の主な流れは、効用中心に動いています。能率の悪いものは能率のよいものにとってかわられ、その能率のよいものも更に能率のよいものに、とってかわられていきます。

 しかし、効用だけでは説明のつかない事態に遭遇することもあります。例えば、「あなたの寿命はあと三日」と宣告されたとしたら(そんなことを宣告するのは占い師以外いないでしょうが)、何かの役に立つとか、お金に換算していくらになるとかいうことは、どうでもいいことになってしまうでしょう。

 そういう効用の役立たない世界で、なおかつ人間が自暴自棄にならずに人間らしく生きていくときの価値観の基準になるのが「美」です。

 パスカルの葦は、宇宙のわずか一滴の力によって倒れるようなか細いものですが、自分が滅びるということを知っているという点で宇宙全体と同じ重さを持ちえたのです。

 こういう美意識を、わたしたちの普段の生活の中にも生かしていくことができると思います。

 受験生にとって、受験する前の不安はとても大きなものです。またもし不合格になった場合、その絶望感もとても大きなものです。この不安や落胆を救うものは、ある意味で詩心のようなものだと思います。

  作文の比較はしないで

 言葉の森新聞に、自分の子供と同じ学年の生徒の作品が載っていると、つい比較してしまいがちです。「同じ学年なのに、よくこういう表現ができるわねえ。(それに比べてうちの子は……)」という比較です。

 文章を書く力はすぐには伸びません。自習で長文の音読をくりかえしたり、毎日50ページ以上の読書を続けたりという気長な積み重ねで、少しずつじょうずになっていくものです。

 子供をはげます意味で、ほかの子の作文を例にあげて、「この子の作文はじょうずだねえ」とほめるのも禁物です。もしお父さんがお母さんをはげますつもりで、「となりの奥さんは同じ年なのにきれいだねえ」と言ったら、果たしてお母さんははげまされて「よし、わたしもがんばってきれいになろう」と思うでしょうか。

 自分の子供の今のいいところだけをたっぷり認めてあげて、地道に自習を続けるというのが勉強の王道です。気長にほめてあげてください。

 

  光る表現コーナー

ニルスさん(あそな/小2)の作文より(スズラン先生/1.2週)

 ぼくは、おもいっきりけりました。ボールが、風にまたがったようにいいボールがでました。評:ボールがいきおいよくとんでいったようすがわかりますね。

デジモンさん(てつ/小2)の作文より(ミルクティ先生/1.3週)

 (なわとび)先生が「四百回ぐらいとんでいたんちゃう。」というので、びっくりしました。でもとび方は一回せん二ちょうやくです。先生が「二年生では一ばんやわ。」といっていたので、またまたびっくりしました。もし、山さきさんやとく長さんたちが、もっとつよかったら、きっとまけていただろうなと思いました。これからもなわとびがんばるぞ。<評>先生の話す感じが、うまく表現できているよ。「●もし…だったら」も、しっかり書けたね。なわとびで四百回もとべるなんて、すごい!v(^o^)

プリンさん(あえは/小3)の作文より(スズラン先生/1.3週)

 うそをそのままにしておくと、後から、とんでもないことになって、あの時、うそをついていなかったらとこうかいすると思います。評:うそをついてしまったときは、あとでいやな気持ちになりますものね。

堀田さん(ちこ/小3)の作文より(ミルクティ先生/1.3週)

 私が、この長文を読んで、一番かわいそうなのは、先生がきびしいことです。しゅくだいをわすれたぐらいで、そんなにきびしくしなくてもいいと思います。それに、一つのかん字を三十ぎょうずつ書くというのは、すごくたいへんです。そんなにたいへんなのに、きびしくおこるなら、先生もやってみればいいと思います。<評>長文を読んで一番つよく思ったことを書き出しにしっかり書けたね。ほかにもいろいろな感想を書いてくれたけれど「一番…なのは」と書いたことで中心がしっかり決まったよ。

清水さん(てい/小3)の作文より(スズラン先生/1.3週)

 うそとは、雪だるましきにふえていくし、うそつきはどろぼうの始まりと言うけれど、この子は、つきたくてついたのではないと思います。「なまけたのでしょう」といわれたら、だれだってくやしくなりまた、とあるように、先生のその一言でうそをついてしまったと思います。評:作者の気持ちをつかんでいましたね。

アルルさん(てよ/小3)の作文より(もとばと先生/1.3週)

 (学校ですててはいけない水を自分がすててしまって、正直に自分がやったといいだせないまま)家に帰ってそのことをお母さんに話したら、「やってしまった事より、うそをつく事の方がいけないのよ。」と言いました。評:お母さんの言葉ではっとしましたね。

石川さん(らよ/小3)の作文より(ミルクティ先生/1.1週)

 「じょ夜の鐘」上をみたら、月が光っていました。右をみたら、おはかがまようほどいっぱいならんでいました。(略)かえろうとすると、きてきのおとがしました。しばらくして音がなくなるとぼくが「もうおわったね。」と父にいいました。そうしたらまたきてきのおとがなって父が「きせつはずれもいるんだなぁ。」といいました。<評>おおみそかにお父さんと除夜の鐘をつきに行ったときの話。こうこうと光る月、ひっそりと静まりかえったおはか、汽笛の音…冬の夜の情景が目にうかぶようだね。

ふるばさん(あすら/小4)の作文より(みち先生/1.2週)

 じゅ業が終ると、まるでねずみのように、教室から体そう庫まで走っていきます。評:ぴったりのひょうげんで、姿がみえるようです。

はるピーさん(あたね/小4)の作文より(スズラン先生/1.2週)

 私は、大なわを木に結んで、ボタンをおすと自動になわがまわって、人がまわさなくてもいい大なわがほしいです。はやさは、ボタンをおすだけでかわります。評:こんな大なわがあれば、手が冷たくならないし、みんなで楽しめそうですね。

ミニドラさん(あつの/小5)の作文より(ミルクティ先生/1.1週)

 私は去年よりお年玉の額が減った。でも、もらえるだけうれしいと思う。だってお父さんの会社が不景気な子はもらえないかもしれない。もらえるだけでましだ。もらったお年玉を、私は貯金する。貯めたお金は大人になるまで使わない。安物買いの銭失いにならないようにするんだ。(略)お父さんが働いてくれるからもらえるお年玉。来年もいっぱいお年玉がもらえるといいなぁ。<評>お年玉の額や何を買ったかということだけでなく、社会的なこと(不景気)や、お年玉をもらえるのも働いてくれるお父さんのおかげ…といろいろな角度からお年玉について書いたところが、すばらしいね。

あずささん(あすな/中3)の作文より(ゆり先生/1.2週)

 THAT'S玉の輿風シンデレラになりたい女の子は沢山いるが、シンデレラのように優しい女の子がたくさんいないのは、現代が作ってしまった社会のせいであり、(後略)評:鋭い視点だね。

はみちゃんさん(あすよ/小5)の作文より(かつみ先生/1.3週)

 『自然』の二文字を大きな熊(私達)が食べてしまっているのだ。 評:熊と言う表現が説得力があるね。

佐藤さん(らる/小5)の作文より(ミルクティ先生/1.3週)

 ことわざに、聞くは一時のはじ聞かぬは末代のはじというのがある。ぼくも、このまえ野球で、自分のスイングを見てもらわなかったから、どれがいいスイングなのかがわからなくて、あの時に聞いとけばよかったなと思ったことがある。だから、ぼくは、聞きたい時には、ちゃんと聞くようにしたいと思った。<評>ことわざの意味をちゃんと理解して、にた話、思ったことをしっかり書けたね。

アッポさん(うえ/中2)の作文より(スズラン先生/1.2週)

 自分の読みたい本を自分で読むことができるという自由をもっているのに、それを無駄にするのは、もったいないことだと思う。評:本から、生き方のヒントをいっぱいもらいたいものですね。ら抜き言葉を使ったことを指摘する人もいないし、使っている意識もない。評:この頃反省の意見も多くなりましたが、ら抜き言葉を言う人が多くなりましたね。気をつけたいものです。

関野さん(ふあ/高2)の作文より(とも先生/1.3週)

 (1.3週長文の要約)専門家は職業的専門家として一面ではもちろん有効な働きをするけれど、他面ではそのポスト(地位や職)を保守しその存在意味を示すために、逆にわざわざ仕事をつくりだす。それが子供達に対して貼る「非行」や「落ちこぼれ」等々というレッテルなのである。しかし非行少年達を本当に救い出すのは専門エージェントの権威を持たない人、又その知識に囚われることのない眼をもって相手に接しうる人、つまり「裸の人間」なのである。・・・評:高校生以上の長文の要約です。205字です。これだけ読んでも内容がしっかりわかります。きれいな要約です。

末松さん(ふえ/高2)の作文より(ミルクティ先生/1.2週)

 (「その昔、サングラスを」の感想)そして、心にまでサングラスをかけないようにしたい。<評>書き出しで使ったキーワードを結びの文でも使うという「●書き出しの結び」が、うまくできたね。決まってます!

  郵便ポストより

 パソコンで書いてインターネットから送られたパソコンは、郵便ポストというページに最新40件が掲載されています。

 その中の作文のいくつかを紹介します。インターネットに接続できる人は、作文を書き出す前に、同じ学年のほかの人の作文を読んでみると参考になると思います。書いた人のページに、感想を書くこともできます。

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ぎぶみぃまねぇ

欲しいものはすぐになんでも買える。という生活は楽しくないと思う。子供の頃に「あれ買って。これ買って。」で「はいはい。」と買い与えると、将来お金の価値がわからない人間になってしまう。家で「プレイステーションを買いたいな。」とお年玉で買っても良いか聞いてみた。すると、「買っても良いけど条件をつける。何かのテストで満点を取るか社会で80点(苦手なのよ)取れば買っても良い。」という条件をつけられた。昔「ゲームボーイかってぇ。」と頼んだら「自分でお金を貯めてかいなさい。」と言われた。こうやって少しづつでもお金の価値を分かっていくと良い。

「杜子春」という話がある。一人の人が大金持になると、他の人はまるで磁石の様によってきて、その人がビンボーになると挨拶もしない。その人は「お金のあるないで態度が変わるなんて、人はなんて醜いんだろう。」と思っただろう。

お金とは人に愉快な思いも、不愉快な思いも与えるものである。

お金とは「おっかねー」ものである。byネギカモ

たこ星人(中1) ● komuより ● 課題コード07421 99/02/03 19:15:23

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私の手作りの品々

ここは伊豆。今、私は友達のおじいちゃんに湯呑みの作り方を教わっていた。手や、ろくろで湯呑みの形を作るのは、とても楽しかった。時がたつのを忘れるぐらい、夢中でやった。さあ出来たと思い、友達が作った湯呑みと比べてみると、はるかに私の方が下手だった。しかし、なんとなく、その形がいびつな私の湯呑みの方が、うまいように思えた。

ほかにも、私の手作りの品がある。

「まずは、この土をねってみましょう。」

その日の図工の時間は、焼き物を作るというものであった。私は、「親子ウサギ」と、「にこにこ灰皿」を作った。どちらも、力作である。みんなと、比べてみても、ひときわ目立っていた。

これらの話からわかることは、餅は餅屋蛇の道はへびだけれども、やはり、自分が作ったものの方が、大切に思えるということだ。

はるる(小5) ● kuaより ● 課題コード05421 99/02/01 19:21:03

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私の宝物

                     前田 琴美

 私の宝物は、家で飼っている犬のキティちゃんだ。

キティちゃんは、ロング・チワワという犬種で、世界一小さい犬の種類だ。

 キティちゃんは、今から一年前に飼い始めた。

最初は、私達が怖いのか、ふるえて一歩も動かなかったのだ。

しかし、二日、三日……と、どんどん元気になって、

今では、家の中を一日中走り回っている。

うるさいほどだ。

そういうキティちゃんだけど、見知らぬ人には、逃げてしまう。

見知らぬ犬には、一生懸命に、ワンワンと、ほえて、

その犬が向こうに行くのを待つのである。

 私達が、ご飯を食べている時、私の方に来て、いすに足をひっかけて、

私が食べているご飯をほしがる。

私は、キティちゃんにあげたいけれども、キティちゃんのためにがまんして

いるのだ。

それは……ロング・チワワという犬種は、色は真っ白なのである。

しかし、人間が食べている食べ物や、ドッグフード以外の物をやると、

せっかく真っ白だった毛が、茶色っぽくなってしまうのだ。

それにあまりキティちゃんに、人間が食べる食べ物など、やっておくと、

そればっかり食べて、ドッグフードなどは、

あまり食べなくなると、思ったからだ。

 だから、この間、父からそのことを聞いてびっくりした。

 キティちゃんがいると、一人の日も楽しくて、キティちゃんと、

いっしょに遊べるから、いいなぁと、思った。

 だから、キティちゃんは、私の友達だ。

 私の宝物だ。

 宝物というのは、

一生大切にしなくちゃいけない物なんだなぁと、思った。

前田 琴美(小5) ● atuyuより ● 課題コード05414 99/02/03 11:23:02

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ピーピーピーピー!(芸術と点数)

 「ピーピーピー!」ちゃんと音をのばしているか。きちんとした態度でテストに臨んでいるか。楽しそうに吹いているか等、リコーダーのテストでこんな事柄が評価の基準になっているらしい。しかも、うちの学校ではテストの日に休んだら「テスト前の健康管理がなっていない」ということでマイナス、提出物をきちんと期限までに出さなければ「だらしがない」ということでマイナス…と、音楽本来の芸術的な事には少しも関係がないことで学校の成績が決まっていく。

 そもそも、音楽や美術などの芸術的な事は、楽しむために作られたはずである。音楽を例に挙げてみよう。音楽はその曲を聞いて感動したり、リラックスしたり、自分で歌ったりして楽しむ。知らない人に「ここがおかしい」「あそこがおかしい」と批評されたり、点数をつけられたりするものではないと、私は思う。それに、私の学校の先生ときたら、音楽に関係のない事まで点数をつけている。音楽の先生が「音楽は楽しむものだ」ということを分からないで誰が音楽を楽しむだろう?

 しかし、点数をつけるというのにメリットがないわけではない。ピアノは結構先生から点数を付けられる習い事のひとつだ。「ここはもう少し弱く。あ、そこはクレッシェンド!」などと、かなりたくさん注意を受ける。では、もしもそれがなかったらどうなるだろう?注意がないということは、「好きに弾いて良い」ということに等しい。すると、いつまで経っても進歩しないし、上達もしない。やりがいがないので、とてもつまらない習い事になってしまう。さて、これではおかしいではないか。芸術というものは点数をつけるものではなく楽しむものだ、という私の意見は通じない。この場合、点数を付けないと芸術を楽しむ事ができないからだ。

 アリとキリギリスというはなしがある。アリは食料、飲み水を持っていたが、キリギリスは美しい音楽しかもっていなかった。だから、キリギリスは飢えて死んでしまった。しかし、もしもキリギリスの美しい音楽に点数や値段をつけられたとしたら、キリギリスは自分の音楽で食っていけたかもしれない。

 私は、芸術に点数をつけるのがいけないことだとは思わない。芸術本来を楽しむためには点数や値段をつける事も必要なのではないか。「ピーピーピー!」あははははっはあ。

がっちゃん(中2) ● tenaより ● 課題コード08421 99/02/02 20:37:34

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お金

 お金は人に幸福を与えるとともに不幸も与える良いような悪いようなそんな物である。お金というものは、物々交換の時代の後に新しく出てきたものでその時代その時代人に幸福、不幸を与えてきた。お金というものは、今ではなければならないものになってしまった。お金で全てが成り立っているようなものである。

 お金というものは絶対に必要のものである。お金がなければ生きる事ができないといってもおかしくない事である。お金がないと欲しいものも買えない。今までお金がなくて買えないものがいろいろとあった。だからといってなんでも買えるというのは大間違いである。学校でも友達が新しいゲームソフトが欲しいからお金を貯めているとか欲しいものがあるけどお金がないからあきらめる、という話をよく聞く。人間にとってお金は縁の深いものであると思う。しかし、お金をいっぱい持っていたからといってそれでどうなるかというと贅沢な暮らしができてもむなしい感じがするだけである。

 しかし、お金がありすぎるのも良くないことだとわたしは思う。贅沢な暮らしもはっきり言って生活に張りがないと思う。この間新聞で日銀の支店長宅の問題についていろいろと書いてあった。あんな広い家がどうして必要なのかと書いてあった。人間は欲が出るともろいものである。それは何故かと考えてみると世の中がお金でまわっているからである。だからお金がありすぎると必要のないものを買いはじめるのである。

 今も昔も変わらないものである。昔話の「花咲じいさん」、「したきりすずめ」なども欲のある人間が悪い事を考えるようなシーンがあった。どうしたらこのようなことがなくなるのだろうか。

 お金というものは、人間を最悪な状態させることもできるがお金を寄付する事によって人を助けるということもできる。人間は、お金の使い方さえ間違えなければ良いのである。お金が大事というときもあれば必要ないというときもある。そういうこともかんがえてやるべきである。「トランプが生きているのは、それが実際のプレーに使われているときである。」という言葉もあるようにお金を貯めるよりも有効にお金を使う事に意義がある。

紫電改(中2) ● unoより ● 課題コード08421 99/02/02 17:27:41

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編物で作った小さなポーチ

 私は、去年の8月くらいに編物で小さなポーチを作った。初めて編物をしたから、あまり思うようには、いかなかった。お母さんに教えてもらいながら作った。お母さんは、私よりも小さい時に本を見て作ったといっている。私はそれを聞いてすごいと思った。私はもう11歳なのに、お母さんに教えてもらいながら作った、なのにお母さんは私よりも小さい時に自分で作ったのだから…私のクラスの先生もセーターなどを作りいろんな人にあげたという。私ももっとうまくなり色々な物を作ったり、色々な人にあげたいと思っている。

 ことわざに「好きこそ物の上手」とあるが、私もこのことわざの様にもっと編物をうまくなりたいし、もっと編物を好きになって、楽しい思いをしたいと思っている。

高橋玲子(小5) ● atayuより ● 課題コード05421 99/02/01 17:45:49

--------------------------------------------------------------------------------優れた児童文学

 「不思議」と言えば、私という人間がこの世に存在しているという事ほど「不思議」な事はないのではないだろうか。児童文学とは、その私の存在の「不思議」を自覚させてくれるものではないだろうか。

 私もたまに自分という人間が今ここにいるのはなぜだろうかと思うと同時に、自分の存在についてもよく分からなくなるときがたまにある。そういう時には、児童文学を読み、自分の存在について気がつくという事が大切ではないだろうか。

 私が一番感銘を受けた児童文学は「二分間の冒険」という本で、突然別世界にタイムスリップしてしまった主人公は、元の世界に戻るための条件が、この世で一番たしかなものを見つけることであるという事を知らされ、大冒険を繰り広げた結果、一番たしかなものは自分だという事に気がつき、元の世界に戻るが、たった二分しかたってないという話である。私はこの本を読んで、自分の存在というものを知り、「私」としての生涯を生き抜く事に全力を尽くさなければならないという事を教えてくれたような気がする。

 児童文学とは「私」の存在の「不思議」を自覚させてくれる面でも大切である。

小山哲也(中1) ● kusaより ● 課題コード07412 99/01/29 20:33:11

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