http://www.mori7.com/ 1999年12月2週号 通算第643号 mori7@mori7.com

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  「分数のできない大学生」の次に来るもの

   「難しい本の読めない大学生」が増えている

 分数のできない大学生が話題になっています。「分数ができない大学生(東洋経済信報社)」は、ややセンセーショナルな題名の本ですが中身はいたって真面目です。主著者の西村和雄京都大学経済研究所教授は、日本の大学の知的状況に心から危機感を抱いていることがわかります。

 現在の日本では、進学校であっても、高校時代に文系コースを選択すると、数学で受験する必要がなくなるので、数学の勉強がおろそかになってしまいます。数学のような大きな体系を持つ分野の勉強は、社会人になって必要性を感じてから学びなおすということがなかなかできません。高校時代のように勉強に専念できる時期にしっかりした基礎をつけておく必要があります。

 高校時代に数学をしっかり勉強しなかった人は、大人になっても数学的な発想がなかなかできません。例えば、中学生などでよく「今度のテストは90点だったからよかった」とか「70点だったからだめだった」などと言う人がいますが、テストの点数は、全体との比較の中でなければ意味を持ちません。数字自体が漠然としたイメージを持っているので、そのイメージで判断してしまうのです。こういう発想をする人は、大人にもかなりいます。

 日常生活のほとんどは具体的事物を通して考えることが多いので、数学のように具体的なものを離れて数字を操作的に扱うことは、訓練しなければできません。しかも、世の中では数学の苦手な人の声のほうが説得力があるので(苦手な人が多いからでしょう)、数学に縁遠い人は、一生縁が遠いままで終わってしまうようです。

 さて、本題は、分数のできない大学生のとなりで進んでいるもうひとつの事態です。

 それは、ひとことで言えば、難しい本を読めない大学生と言うことができるでしょう。

 いま、小学校高学年から高校生にかけて、語彙不足が進んでいます。言葉の森でも、長文を読んでいる生徒から「この字なんて読むの」と聞かれる字のほとんどがごく普通の字です。最近では中学3年生の3、4人から「示唆」という字の読み方を聞かれました。(「しさ」です)

 語彙不足の原因は、読書不足、特に難読不足です。しかも、問題は、5や4を取る成績のいい中学生や高校生が読書をしていないということです。つまり、現在の学校の成績で測られる学力は、読書をしていなくてもそれなりにいい成績が取れるような学力なのです。

 いまの大学受験も同じです。読書をしていなくても、いい成績で大学に入れます。しかし、大学に入るまで読書をせずに勉強をしていた生徒が、大学生になってから、または社会人になってから読書を始めるということは、あまり考えられません。もちろん、小説のような本は、いつになってからでも読めるでしょうが、ある程度の難しさを持った本は、やはり勉強に専念できる時期に読まなければ一生読めないのです。例えば、高校生が学校の倫理や政経の授業で習う有名な人物、アダム・スミス、リカード、ケインズ、ヘーゲル、マルクス、ソクラテス、プラトン、カント、ルソー、ウェーバー、サルトル、ニーチェ(順不同^^;)などの本は、大学生の間に読まなければ一生読む機会はありません。

 こういう古典の読書に支えられていない学力で、しかも数学的発想のできない学力で、外見上の学歴だけ高い知識人が、これからの日本の社会の中堅を占めつつあるのです。それは、やはり世界知識人の基準とは異質なものだと思います。

  国語の成績のいい子の特徴

   低中学年では多読を、高学年では難読(長文音読)を

 国語の成績のいい子を見ていると、二つの特徴があります。

 ひとつは問題文を読むのが速いことです。ですから、設問で「○○とは何を指しているか。文中の言葉を使って答えよ」という問題を見ると、すぐに、問題文から○○という言葉を見つけて、その前後の文章を探すことができます。国語力のない子は、これができません。ぱっと見てぱっと探せないのです。ちょうど、私たち日本人が、英語の文章を見せられて、この中から△△という単語を見つけてくださいと言われて困惑するのと同じです。英語の文章は斜め読みができないので、最初から逐語的に読んでいくしかありません(英語の得意な人は斜め読みができると思いますが)。速読のできない子は、英語と同じように、日本語の斜め読みができないのです。

 速読力をつけるためには、多読が必要です。受験が近くなってから多読の勉強をする時間的余裕はありませんから、小学校中学年のうちに、おもしろい本をばりばり読むという習慣をつけておくことが大事です。読書の苦手な子は、学習漫画のように絵の助けを借りて知識を得るような本ばかりを読みがちですが、学習漫画は国語力をつけるのには役立ちません。ただ物知りになるだけです。長い文が書かれている本を読む必要があります。

 国語の成績のいい子の第二の特徴は、難しい言葉におじけづかないということです。苦手な子は、読めない漢字が一つでもあると、そこで読みが停止してしまいます。初めて見るような意味のわからない言葉が二、三個出てくると、そのわからない言葉が視野を遮るのか、文章全体がわからなくなってしまいます。たとえそこでその言葉の意味が教えられても、初めて意味のわかった言葉ですから、その言葉が何度か出てくると次第に脳が疲労してきて、全部読み終えるまでに眠くなってしまいます。

 国語の得意な子は、初めて見るような難しい言葉自体があまりないということもありますが、難しい言葉があっても、全体を読んでいるうちにわかるはずだという確信があるので、わからない言葉をそのまま保留にして最後まで読みつづけることができます。大学入試に出てくるような論説文の問題は、最後まで読んで初めて全体の意味がわかるという構成になっている「悪文」が多いので、最後まで一挙に読み通すことができるというのは、国語力の重要な要素になってきます。

 この難しい言葉に慣れるためには、難読が必要です。しかし、小学校高学年から高校生にかけて読むのにふさわしい難しい本は、書店にはほとんどありませんから、長文の音読を繰り返しやっていくことが効果的です。

  長文音読と読書の習慣は躾と同じ感覚で

   高学年になっても毎日言い続けることが大切

 国語の成績は、どうしたら上がるのでしょうか。ひとことで言えば、小学校低学年では、読書の量が増えると上がります。小学校高学年からは、長文音読を毎日していると上がります。さらに早く力をつけたいという人は、国語の問題集の問題文を読書がわりに読んでいくといいと思います。それもいろいろなものを一回ずつでなく、同じものを四回以上繰り返して読むことが大事です。この少数の繰り返しという勉強法は、国語に限らずどの教科にも当てはまります。

 国語の成績を上げるには、「多読の速読」と「難読の復読」が必要です。

 しかし、多読と難読を塾や学校で指導することは実は難しいのです。その理由は第一に、教える先生自身が国語力を上げる本質をよく知らないので、つい問題集を解かせたり、問題文を解説したりする授業をしてしまうからです。第二の理由は、生徒を集めて1、2時間本を読ませておしまいというような授業は格好がつかないのでやりにくいからです(笑)。本当は、いちばん理想的な国語の授業は、「読むのが苦手な子は易しい本でいいからどんどん読んで、読むのが得意な子は難しい本をどんどん読んで、読み方や意味のわからない言葉があったら静かに先生に聞いてね」という授業です。しかし、こういう授業をするというのは勇気が要ります。

 塾や学校の国語の授業で読書を中心にするというかたちはしばらくは考えられませんから、国語力を上げるためには、家庭での日常的な働きかけが必要になってきます。しかし、ここでまた問題になるのは、親が国語が苦手だと、読書や長文音読を子供にさせるときにも、及び腰になってしまうことです。「本でも読んだら」というような言い方では、子供に本を読ませることはできません。それは、「勉強でもしたら」という言葉では勉強をさせられないのと同じです。また、子供は難しい本や活字の小さい本を最初は嫌がります。このときにも、「もう少し難しい本でも読んだら」という言い方では、決して子供に難しい本を読ませることはできません。また、一度や二度のアドバイスで子供に読書の習慣がつくということもありません。毎日毎日、親が確信を持って、歯を磨いたり顔を洗ったりすることと同じような当然のこととして、「長文を音読しなさい」「読書をしなさい」「難しい本を先に読みなさい」と言い続けて、やっと子供が長文音読や読書を続けられるのです。これは一種の躾ですから、親が言い続けなければすぐに崩れます。そして、いったん躾を崩してしまうと、また軌道に乗せなおすのは実に大変です。

 小学校低学年のうちは、子供に音読や読書をさせることができますが、子供が小学校高学年になり塾に通ったりスポーツで忙しくなったりすると、つい躾の手を休めてしまうことがあります。「もう高学年になったのだから、読書は自分で自覚してやっていけばいい」と考えてしまうのでしょう。また、中学生になったときも同じように躾の手を休めてしまいがちです(こっちのほうが多い)。「もう中学生になったのだから、読書は自分で自覚してやっていけばいい。親があれこれ口出しするものではない」と思ってしまうのです。しかし、ここで、いったん読書について口うるさく言わなくしてしまうと、もうあとはほぼ永久に読書についてのアドバイスはできなくなります。「たまには本でも読んだら」「本なんて読む暇ないよ」「あ、そう」という会話で終わるようになってしまいます。

 躾の原則は、毎日です。一日おきに読書をするとか、週に5日読書をするというようなかたちでの習慣はまずつきません。それは、一日おきに顔を洗うとか、いつでもいいから週に5日は歯を磨くという習慣がつかないのと同じです。習慣は、毎日続けたほうがずっと楽につきます。読書や長文音読は、物理的に時間が取れない場合以外は、毎日欠かさずやっていくことが大事です。毎日では大変だから、週に3日でいいなどとすると、かえってやりにくくなってしまいます。日曜でも祝日でも時間が来たら例外なくやると決めたほうがずっとやりやすいのです。

 現在、小学1、2年生の子供でしたら、こういう習慣は簡単につきます。あとは、親が強い意志を持ってこの習慣を高学年になっても中学生になっても崩さないようにしていくだけです。

 現在、5年生以上になっている子供の場合、読書や長文音読の習慣を新しくつけるのは至難の技です。たとえれば、5年生まで右利きだった子を急に左利きに変えるくらい大変なことです。

 いずれにしても、躾には、親の強い意志が必要です。英語や数学は、夏休みの集中特訓で成績を上げることもできますが、国語についてはそういうことはありません。国語の力をつけるためには、躾をするのと同じ感覚で気長に取り組んでいく必要があります。

  来週12.3週のヒント(小学生)

   小学1年生 12.3週 おとうさんがいいました(感想文)

 内容:おとうさんがいいました。「きょうの朝ごはんはベランダでたべよう。」おとうさんはだいどころで、にがうりりょうりをつくりました。ミナちゃんは、アサガオの花がさいているうちに、えにっきにかきました。

 解説:ベランダで朝ごはんをたべるというのは、たのしそうですね。みなさんも、おもてでごはんをたべたことがあるでしょう。そのときのことを思い出して書いてみましょう。

 おとうさんは、自分のそだてたニガウリでりょうりを作りました。じぶんでそだてたもののあじは、またかくべつだったでしょう。みなさんも、じぶんで作ったりそだてたりしたものをたべたことがありませんか。あれば、そんなはなしも書いてみましょう。

   小学2年生 12.3週 ふろあがりに(感想文)

 内容:ぬれタオルをあたまにのせると、すずしいかんじがします。わたしたちのひふも、そのタオルのようなやくわりをしています。犬はひふのかわりにしたをだして、あつさをちょうせつします。

 解説:ぬれたものがじょうはつするとき、ねつをうばいます。あついときにあせをかくのは、そのあせがじょうはつするときに、体をひやしてくれるためです。また、ぬれたものをきていると、からだがすごくひえます。雨の日に長ぐつの中に水が入ると、すごくつめたい感じがするでしょう。暑かったときの話や寒かったときの話を思い出して書いてみましょう。にた話は、お父さんやお母さんに聞いてみてもいいでしょう。先生(森川林)は、むかし、南アルプスにテントを持って登ったことがあります。ちょうど熱帯低気圧が来ているときで、突風の中、やっとの思いでテントを張って、着替えて、さあお茶でも飲もうかというときに、テントごと飛ばされてしまいました。テントからはいだして、強風の中を近くの山小屋までパンツ一丁で荷物をかついで歩いているときが、一生でいちばん寒かった思い出です。(笑)

   小学3年生 12.3週 その日から(感想文)

 内容:アインシュタインは、アメリカ国民に対して原子力の危険性を忠告しました。しかし、核開発合戦は過熱し、世界はアメリカ側とソ連側にわかれて、にらみあうようになりました。博士は、原子力発電所をはじめとする、原子エネルギーの平和利用についても、かなり慎重な考えをもっていました。

 解説:戦争というのは、国どうしのけんかのようなものです。日本に対して原爆を使ったアメリカは、アインシュタインらの核廃絶と戦争反対の声を無視して、ソ連との核開発競争に進んでいきます。友達とけんかするとき、「あいつがああやったから、こっちはこうやる」「それなら、こっちはこうだ」とだんだんエスカレートしてしまうことがあります。話し合って仲良くすればいいのにね。

 最近、原子力の燃料工場で事故がありました。原子力は大きな力を持っているだけに、いったん暴走すると、人間の力ではコントロールできなくなるところがあります。「風の谷のナウシカ」という映画を見た人がいると思いますが、ここに出てくる巨神兵というのが、この原子力の象徴のようですね。

   小学4年生 12.3週 日本の大地に(感想文)

 内容:お米がたくさんとれると、人口も増えました。人口が増えると力を合わせることができ、ますますお米がとれるようになりました。文明が発達し、力の大きい国が力の小さい国を従え、日本がひとつに統一されるようになりました。

 解説:みんなで協力すると能率がよくなる話などを書くとよいでしょう。重いものなどを運ぶとき、ひとりでは運べないときも力を合わせると楽に動かすことができます。似た話が書きにくいときは、「もし、お米がとれなかったら、日本はいまごろ……」と想像した話を考えて書いていってもよいでしょう。

   小学5年生 12.3週 数年前のことに(感想文)

 内容:何をいつ食べるか、それをどう食べるか、といったことに関して、どの国の食事にも、さまざまな制限や規則が習慣として存在する。日本食の場合には、米の飯と他の食物との関係は、並列的・同時的である。ところが、食事の一段階ごとに一品ずつの食物を片付けていく、通時的展開方式の性格の強い食事文化もある。日本の食事文化に存在するある項目を、別の食事文化の中に見出すと、これを自分の文化に内在する構造 に従って位置づけてしまうことがある。

 解説:「ことばと文化」は岩波新書で出ています。著者の鈴木孝夫さんは日本語に関する独創的な思想や提案を述べていますので、将来、機会があればぜひ読んでください。

 和食のレストランと洋食のレストランでは、料理の出され方がちがいます。和食ではまとめてどさっと空間的(並列的・同時的)に料理が出てきますが、洋食では最初はスープ、次はパン、次はギョウザで、最後はラーメン(おいおい、それは洋食じゃないって)という具合に時間的(通時的)に料理が出てきます。

 社会の勉強の好きな人なら、インドでは牛肉のすき焼きなど食べられないということや、イスラム圏では豚肉の焼き肉パーティーなどできないということを知っているでしょう。

 日本人のよく使う「すみません」や「はい」は軽いあいづちのようなものですが、これをそのまま英語で「エクスキューズミー」や「イエス」とひんぱんにやってしまうとかえって誤解されてしまうことがあります。

 文化の違いによって、同じ事柄が異なった価値のもとに位置づけられてしまうという例をさがしてみましょう。日曜日にお父さんやお母さんと話し合ってみるといいかもしれませんね。

   小学6年生 12.3週 がんばることが大好きな(感想文)

内容:島国の日本は歴史的にみて、つねに新しい外来の文化をより早くより多く輸入しなくてはならない状況にありました。何のために「勉強」するのかという目的を問う前に、知識をえるために、がむしゃらに「つとめ、しいる」くせがついてしまったのです。しかし、自分の勉強する目的をはっきりさせ、勉強する中で自分の生きがいを見出すことができたら、「勉強 」も苦痛ではなく、充実したものになるでしょう。学生時代とはこの課題を「勉強」を通じて考えていく、いわば自分探しの旅の始まりにもたとえることができるでしょう。

 解説:強制された勉強でいやいややったという話と、自分の好きな勉強で思わず熱中したという話とを対比させていくとよいと思います。また、高学年だと、学校の勉強以外の社会勉強も大事だということがわかる時期なので、学校以外で学んだことなども書いていくとよいでしょう。

 いやいややった勉強では、身についていないという例として次のようなものがありそうです。「何度も練習した漢字なのに、作文に書けない」「外人に声をかけられても、簡単なあいさつすら言えない(小学生にはちょっとピンと来ないかな?)」「大学に受かったとたん勉強しなくなったお兄さんやお姉さんの例(^_^;)」

 お父さんやお母さんの話も聞いてみましょう。(小さい時の夢の話、今勉強についてどう思うかなど)

 ことわざは、「144、論語読みの論語知らず」「59、鹿をおうものは山を見ず」「61、知って行わざるは、知らざるに同じ」「143、ローマは一日にしてならず」など。

  来週12.3週のヒント(中学生以上)

   中学1年生 12.3週 方言で「つるべ」(感想文)

 内容:言葉の正しさを論ずる時にとかく語源が引き合いに出されるが、語源の通りでは社会状勢の変化のために合わなくなるものが多い。そうかと言って、社会の変化に合わせていちいち言葉を言いかえるのも大変なことだ。結局、言葉は各人の言語意識によって動いて行くようである。

 解説:言葉は時代によって変わるという話です。今どき、学校に下駄をはいてくるような人はいませんが(いたら、かなり危ないけど)、学校ではときどき「下駄箱にちゃんと靴を入れて」などと言うことがあります。言葉の森の教室でも、先生が「さあ、みんな黒板を見て」と言うと、「先生、ホワイトボードでしょ」とちゃかす人がいつもいます。

 実態からかけ離れた言葉を使い続けるのも問題ですが、実態が変わったからといってすぐに言葉の方も変えるというのも問題です。これは、ことばにかぎらず、いろいろな規則や習慣にもあてはまりそうです。

 名言は、「40、存在するものには、良いとか悪いとかを言う前に、すべてそれなりの理由がある」。「48、できあがった規則をなんとか守ろうとすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが真に規則を生かす道である」。

   中学2年生 12.3週 一人一人の話が(感想文)

 内容:宇宙飛行士は、宇宙で共通の体験をしているように思われる。ラッセル・シュワイカートは、宇宙空間で仕事をしているとき、機械の故障のために数分間何もしない時間を持った。そのときに地球を見て、シュワイカートは「自分は『私』ではなく、地球の全生命の過去と未来を含めた『我々』なのだ」という意識を持った。この個体意識から地球意識への脱皮は、今すべての人々に求められている。

 意見:意見は、個体意識から地球意識への脱皮ということで考えてみましょう。具体的には、自分のことだけでなく相手のことも、自分の国のことだけでなくよその国のことも、人間のことだけでなくほかの生命のことも考えていく意識が必要だということです。中学2年生の総合化は、「自分の利益を考えることも必要だ」「しかし、全体の利益を考えることも必要だ」「だから、大事なことは……」と考えてみるとよいでしょう。

 名言:名言は、「87、私たちの幸福が……」などが使えそうです。

   中学3年生 12.3週 考えてみると、私の家では(感想文)

 内容:少年時代、飼っていたチャボの死を通して、人生には大切なものが一瞬にして失われるときがあるという経験をした。何十年かの後、ブリュッセルの美術館で、この時私の感じたものをはっきり思い出させずにおかない一枚の絵に会った。

 解説:人生の相貌の一瞬の変転という経験は、みなさんもしたことがあるでしょう。だからこそ、今のこの一瞬を悔いなく生きるという姿勢が必要なのかもしれません。「葉隠」という本には、著者山本常朝の独特の人生観が書かれています。山本常朝は、武士の心構えとして、毎朝毎晩自分が死ぬときのことを考えることが大切だと言います。しかも、それをいちばん苦痛の多い死に方として日々考えていくべきだと述べています。

 私たちはともすれば、死や苦痛から目をそらそうとしがちですが、死や苦痛を直視することによって充実した生き方ができるのかもしれません。

   高校1年生 12.3週 誰かがいつか(感想文)

 内容:神経が苛立って眠れない時があるが、これは神経の疲労が肉体の疲労とのバランスを欠いて、独自に進行してしまった結果である。そこで私は、長時間原動機付自転車に乗った日は必ず、家に入る前にその場で体操をしたり、家の周囲を暫く走ったりして、「肉体」を酷使し、疲労のバランスをとるよう努めている。

 解説:肉体と神経の乖離(かいり)というのが長文の主題です。今日の社会では、高速道路を時速百キロで鼻歌交じりに運転してみたり、居間でくつろいで世界のニュースを眺めたり、というような肉体と神経が一致しない場面が数多くあります。これを今日の問題として考えてみましょう。

   高校2年生 12.3週 日本人にはボランティア精神が(感想文)

 内容:日本人には、ボランティア精神が希薄で、ボランティアのシステムを社会的に定着させるのは困難ではないかとの意見がある。しかし、日本には、仏教の因果応報の考え方があり、「困ったときはお互いさま」という相互扶助の精神がある。ここに日本的なボランティア活動が根づく地盤があると思う。

 解説:日本でも、しだいにボランティア活動が活発になってきました。しかし、まだボランティアが日常的に根づくというところまでは行っていません。この原因を考えてみましょう。

   高校3年生 12.3週 今日ほとんどの人々は(感想文)

 内容:今日ほとんどの人々は、民主主義と市場経済、すなわち資本主義のことを、まるで兄弟であるかのように語っている。しかし、民主主義は極端な平等を肯定しているのに対して、資本主義そのものには、平等化のメカニズムは組み込まれていない。民主主義と資本主義が、基本的な次元で正反対であるにもかかわらず、共存が可能になったのは、社会福祉と教育への公共投資である。しかし、社会福祉も社会投資も、グローバル経済、および国民経済の変化によって、脅威にさらされている。

 解説:平等を志向すると、自由な競争が阻害されます。しかし、市場経済にまかせているだけでは、弱肉強食の世界になってしまいます。福祉の行き過ぎが、スカンジナビア諸国では問題になっているようです。日本でどのような問題がいま起きているか具体的な事例を通して考えてみましょう。

   大学生社会人 12.3週 すべての文化の基本は(感想文)

 内容:「考える力」の根幹をなすものは、母国語の力、それも読解力だ。一部上場企業の管理職・経営者の国語力をテストした結果、地位の差が、国語力、読解力の差として表れていた。国語力をつけるためには、毎日三〇分でも読書をしていくことだ。

 解説:いま、勉強はできるが本を読まないという大学生が増えています。これは、小学校高学年のころから始まっているようです。成績として結果の出る勉強も大切ですが、成績にすぐには結びつかないように見える読書も、長い目で見ればさらに大切です。大学生や社会人の人は、もう受験勉強は済んでしまったので、これからの子供たちはどういう勉強をすべきかということで考えていくといいいでしょう。