Kotobanomori No.675

■言葉の森新聞 2000年8月2週号

文責 中根 克明(森川 林)<nane@mori7.com>

   ■連絡

  9月からファクス受信を廃止(重要)

   作文の送信は、郵送かインターネットで

 言葉の森あてに作文を送る際、これまでは、(1)先生あての郵送、(2)教室あてのファクス、(3)インターネットの掲示板からの送信という三つの方法がありました。

 ファクスの利用は、この1年未満の間に急速に増えてきました。しかし、ファクス送信の増加に伴い、問題も次第に増えてきました。今後のファクスの普及を考えると、ファクス送信のトラブルにより、通常の仕事に支障が出てくることが考えられるため、9月からファクスによる送信そのものを廃止することにしました

 トラブルというのは(1)作文の字が薄くて読めなかったり、途中で切れて入ったりするため、再度送信を依頼するケースが多くなった、(2)教室のほかの電話にまちがえてファクスが送られるケースが多くなった、の二点です。

 これまでファクスを利用していた方は、郵送の手間が新たに増えることになり、まことに申しわけありませんが、以上の事情をご理解くださるようお願い申し上げます。

 なお、作文が担当の先生の手元に到着するまでの日数ということを考えると、郵送2〜3日、ファクス2〜3日、インターネット0日と、インターネットの速さは際立っています。作文送信にインターネットを利用できる方は、ぜひ今後インターネットを利用してくださるようお願い申し上げます。

   ■連絡

  9月からインターネット作文の添削は

  事務局でプリントしたものを郵送(重要)

   先生からの手書きの返送はなしに(郵送のものはこれまでどおり)

 生徒のみなさんがインターネットから作文を送信された場合、これまではその作文を事務局でプリントし、そのプリントを担当の先生に郵送し、担当の先生がそれを添削して生徒に返送するという仕組みにしていました。

 しかし、せっかくインターネットを利用していながら、間に2回も郵送が入るために、時間的に無駄な部分がありました。

 そこで9月から、生徒の送信した作文は、インターネット上で先生が講評を書き、その「講評+作文」を事務局でプリントして、事務局から生徒に返送するというかたちにしたいと思います。作文に手書きの赤ペンを入れることができなくなりますが、それは講評の中でカバーしていきたいと思います。

   ■連絡

  「昔の泉」ができました

   「画像の泉」の昔バージョン

 画像の泉には1999年2月から生徒が描いた絵が入っていますが、古いものはこれまでホームページの表紙からのリンクがついていませんでした。

 今回、「昔の泉」という名前で古い絵にもリンクをはりました。これらの絵は、言葉の森のホームページ内で自由に使って結構です。

 また、画像の泉には、自分のパソコンにある絵や写真をアップロードできます。作文を書くときに絵や写真を一緒につけたいことがあると思います。そのときは画像の泉を利用してください。(ただし100KBまでのファイル)

   ■教育

  ファーブルがいま生きていたら

   みんなと違うことが価値ある時代に

 子供のころから虫が好きだったファーブルは、大人になってからもよくひとりで草むらなどにしゃがんで虫を観察していたそうです。それを見た周りの人たちは当然のように、ファーブルのことを変人だと考えていました。ファーブルのお母さんはたぶんファーブルの将来を考えて悩んでいたのではないかと思います。

 いま、日本でファーブルが小学生時代を送っていたら、どうなるでしょう。

 一昔前でしたら、「虫の研究などで将来食べていけるわけがないのだから、勉強のほうをちゃんとしなさい」と言う親が大部分だったと思います。

 しかし、いまの親の何人かは「虫のような特殊な分野で興味が持続すれば、将来それで食べていけるかもしれない」と考えると思います。少なくとも、人生に生きがいをもって暮らせる条件は、そういう興味が何もない人よりもより多くあると考えるでしょう。

 この意識の変化はかなり大きいものです。私自身でも、自分の子供が「英語も数学も国語もよくできた」などと言っているのを聞くと逆に心配になってきます。世の中に、英語も数学も国語もよくできる人は掃いて捨てるほどいます。そういう人たちの大部分は、大人になるとやがてその他大勢の中に埋もれてしまいます。もちろん英語と数学と国語が三度の飯よりも好きというのであれば、どこに埋もれていようとその人は幸福に暮らせるでしょう。しかし、いまの英語と数学と国語は、個人の興味よりも学校や塾や親という現代の社会の価値観を反映して好きになっているというケースがほとんどです。

 「英数国よりも個性を」というように親の意識が変化してきた大きな条件として、会社に入ってサラリーマンになる以外に、自分でベンチャービジネスを興すことが選択可能な夢となってきたということがあると思います。日本はアメリカなどに比べてまだ敗者復活戦が困難な社会ですが、それでも風通しはかなりよくなってきました。自分で何事かを始めるためには、自分にしかない持ち味がなければなりません。英語と数学と国語がほかの人に比べてかなりよいというだけでは、何も始めることはできません。

 だから、いまいちばん危ないのは、みんなと同じということだと思います。勉強もそこそこできて、遊びもそこそここなして、歌もテレビの人気番組も趣味も流行もみんなと話が合うという人は、一昔前までは安心できる人でしたが、いまはむしろ危ない人と言えると思います。

 人間の好みというものは、中学3年生のころに形成されるようです。このころに、「ほかの人がなんといおうと、自分はこれが好き」というものができてきます。何時間やっていても飽きないという好きなものが中学3年のころまでにできている人は、たとえそれがそのまま将来の仕事に結びつくわけではないとしても、自分らしい人生を歩む可能性が大きくなってきます。

 しかし、そのためには無駄な時間が必要です。ファーブルが、中学3年生になるまで、親や先生から「虫なんか研究する暇があったら、もっと将来役立つ英数国の勉強をしなさい」と言われ続けていたら、やがてファーブル自身が自分の本当の好みを押し曲げて、そういう好みがあったこと自体を忘れていってしまったでしょう。

 よく、高校生までは勉強だけを考えて、大学生になったら自分のしたいことを探すという人がいます。しかし、そういうことはできません。中学3年生で自分のしたいことが見つかっていない人は、大学生になっても社会人になっても自分のしたいことがなかなか見つからないと思います。

 小中学生の子供を持つ親のできることは、勉強の基礎学力をつけるとともに、その子が何が好きなのかを試行錯誤することのできる環境を作ってあげることだと思います。

   ■教育

  子供は強い親に叱られることを望んでいる

   家庭内暴力の背後にある弱い親

 子供自身に聞けば、「怖い先生よりも優しい先生のほうがいい」と口では言うと思います。

 しかし、中学生のころまでは、自己というものがまだ確立されていない時期です。この時期に、子供のことを理解して優しく接するということは、実は子供自身の本当の要求に合致していないのではないかと思います。

 先日、雑誌に載っていた記事によれば、家庭内暴力を繰り返していたある子供は次のように言っています。「親はすぐに『わかった』と言わないでほしい。『ゴメン』と謝らないでほしい。他の人に頼らないでほしい」。たぶん、この子の親は、子供の非行に困惑して、他の人に相談し、子供をもっと理解してあげることが大切だと思い、子供の暴力にじっと我慢していたのだと思います。しかし、そのいずれもが逆効果になっていたのでしょう。

 教室で勉強を教えていると、すぐに「なんで」「どうして」という子がいます。「もっとイスにまっすぐすわりなさい」「なんでえ」という感じです。こういう子のお母さんは、子供に何かを言うたびに、子供に「なんでえ」と言われつづけているのでしょう。私だったらそういう子にはこう言います。「大人が子供のためを思って言ったことに、「なんで」などというたわけたことを言うな」。これですっきり解決です。

 世の中には何が正しくて何がまちがっているかわからないことはいくつもあります。だから、自分の言ったことに責任を持てる大人が「これが正しくてこれはダメ」とはっきりと言う必要があるのです。「自分で考えてごらんなさい」という一見相手の考えを尊重するような言い方では結論の出ないことは無数にあります。「なぜ、食事のときにテレビを見てはいけないのか」「なぜ朝起きたら挨拶をするのか」「なぜきちんとすわってごはんを食べるのか」「なぜ『ぶっころす』とか『死ね』という言葉をつかってはいけないのか」「なぜ歩きながらものを食べてはいけないのか」。そういうことを「自分で考えて」決められるような子はひとりもいません。

 いまの40代の親は、自身が子供のころその親からそういう躾をほとんど受けないで育ってきた日本の歴史の中でも珍しい世代です。それはいま40代の親が子供時代を送った時期が、敗戦後の混乱と自信喪失と占領軍の文化政策の中で、親が子に伝える家庭の中での教育というものをほとんど中断してしまった時期にあたっていたからです。自分が子供のころに言われなかったことは、親になっても言いにくいものです。

 だからこそ、いまの40代の親たちは、親が子に伝える教育というものを家庭の中に早急に復活させていかなければならないのです。

 二宮金次郎と言うと、ぷっと吹き出す人がたくさんいます。しかし、二宮金次郎の伝記を読んだ人であれば、そこにあらゆる時代に共通する価値観である努力と勇気に満ちたひとりの偉大で謙虚な人物の姿を見るはずです。真面目なことが笑いの対象になってしまうのは、私たちの時代が逆に歪んでいるからでしょう。

 大人はもっと自信を持って正しいことは正しいと言うべきなのだと思います。

 

 

 

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