KotobanomoriNo.715

言葉の森新聞

2001年6月2週号

文責 中根克明(森川林)

  長文音読と学校の宿題とが重なるとき

 長文音読の宿題が学校で出されているとき、学校の宿題と言葉の森の自習が重なってしまうことがあります。

 作文でも長文音読でも、同じことを学校と言葉の森で二重にやるというのは、子供にとってはかなり負担を感じることです。

 ですから、学校の宿題と言葉の森の自習の内容が重なってしまう場合は、朝食前の勉強で言葉の森の長文音読をして、夕食後の勉強で学校の音読の宿題をするというように分けていくといいと思います。

 学校の教科書音読の宿題というのは、1年間通して出されるということはあまりありません。また学年が変わり担任の先生が代わればそういう宿題を出さなくなるということもあります。小学校時代の勉強の中心は、学校の宿題ではなく家庭の学習です。毎日同じように取り組む家庭学習を勉強の柱にして、宿題というものは補助的なものと考えておくことが必要です。

  部活動も広い意味での勉強だが

 6.1週の言葉の森新聞で「行事や研究授業やクラブ活動などのために肝心の勉強がおろそかになっている」と書いたところ、読者の方から「部活動の中で身につけるものは多いのでは」というメールをいただきました。どうもありがとうございました。

 確かに、行事やクラブ活動など勉強以外の分野で子供たちが身につけるものは多いと思います。しかし、これは一般論としては言えますが、現実の子供たちの状況を見ていると、行事や部活の行き過ぎを感じるケースがしばしばあります。

 中学や高校の運動部で強いチームになると、先生も子供も試合に勝つことを最優先するようになり、勉強は二の次三の次になってしまいます。これは、スポーツのように勝ち負けがはっきりしている分野ではやむを得ない面があります。試合に勝つためには、どうしてもある程度以上の練習量を確保しなければなりません。問題は、指導者が、子供たちの成長よりも勝ち負けを先に考えてしまいがちなことです。

 今の子供たちは、昔の子供たちに比べて塾通いなどの勉強の時間が増えています。しかし、それは小学生のうちに目立つ現象であって、中学生高校生では逆に勉強の時間は減っています。ですから、総合的に考えれば、今日の教育問題は、勉強のし過ぎではなく勉強のしなさ過ぎです。

 社会の風潮というものは、一昔前の時代の現実を反映しています。「子供たちが勉強し過ぎている」というのは過去の話であって、現実の子供たちは中学生以降になると勉強も読書もしなくなっていく子の方が多いのです。そして、今はほとんどの高校生が希望すれば大学に進学できるので、勉強の不足を自覚する機会はほとんどありません。

 行事や部活動で得るものは確かに数多くありますが、学校生活の中心は勉強だということを、折に触れて大人が子供に話しながらそれらの活動に取り組んでいく必要があると思います。

  文学を志す人へ

 明治時代に、日本は自身の過去を否定し西欧の新しい文物を大胆に取り入れました。そして、太平洋戦争の終結によって再び自身の過去を否定し、西欧の文化を取り入れました。その勇気と柔軟性と向上心と思い切りのよさは、賞賛に値するものだと思います。

 しかし、その二度にわたる大規模な自己否定によって、日本の文化は自身の歴史から切り離されてしまいました。イギリスでは、今でも大学入試でシェークスピア(1564-1616)が出るそうですが、その英語は現代の英語とあまり変わらないものです。(原文はこちら→http://www.shakespeare.sk/)。日本でも大学入試に松尾芭蕉(1644-1694)などが出ますが、それは現代の日本人にとってはきわめて読みにくいものになっています。(「奥のほそみち」の原文はこちら→http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~eguchi/pdd/okuno.html)

 世界で有数の長い文化的な歴史を持つ日本が、その過去の文化をまるで外国語を学ぶように勉強せざるを得ないということが、日本の文化の前に横たわっている大きな問題です。

 これを克服するためには、古文の読書を小中学生のうちから取り入れることだと思います。勉強というかたちでなく、読み物として古文をそのまま読み楽しむということができれば、古文読解のすそ野は広がります。最近、小中学校で百人一首大会などが開かれることが多くなっているようですが、こういう遊びを通して古文に触れる機会が増えるのはいいことだと思います。

 日本の過去の歴史には、文学以外にも、日本人が生み出した哲学、歴史学、数学、経済学が埋もれています。それが、古文という闇の中にあるために、まだ一部の人にしか発掘されていません。そして、古文を専門に勉強している人には、その価値がよくわかっていません。その豊かな日本の過去の文化を現代につなげ更には未来につなげることが、これから文学を志す人に求められています。

  日本の長所を生かすには

 日本の長所は、トップの力量ではなく、大衆のレベルの平均的な高さによっています。このゆえに、日本では治安がよく、国論のまとまりが速やかになされているのです。日本の教育の平均主義には、確かに、優れたものの足を引っ張るというマイナス面がありますが、そのマイナス面を是正するために、平均主義そのものを否定してはならないと思います。

 優れているものを飛び級でどんどん先に進ませるというのはよいことだと思います。しかし、その裏返しとして、劣っているものはどんどんおちこぼれさせるというのでは、日本の長所を見失うことになります。すべての生徒が全教科の勉強を一定の水準でマスターしているという基礎の上に、優れたものを更に伸ばす教育が行われるというシステムを作る必要があります。

  パソコンの時代から携帯の時代へ

 昔、言葉の森で最新機種のビジネスワープロを購入したとき、ハードディスクの容量は10MB〜20MBでした。当時、一太郎というワープロソフトをNECのパソコンで使うという選択肢もありましたが、機能の点でもコストの点でも、パソコンはワープロ専用機にかないませんでした。当時は、ニフティサーブのパソコン通信が1200bpsから2400bpsになりかけている時期で、2400bpsのモデムが時代の先端でした。

 そのころと比べて、パソコンのスペックと回線の速度はともに著しく向上しました。IBMは既に100GBクラスのハードディスクを作る技術を開発しています。有線ブロードネットワークスは100Mbpsの光ファイバーの敷設を始めています。ワープロとパソコン通信の時代から見ると、ハードディスクの容量で約1万倍、回線の速さで約10万倍です。

 ここからどういうことが予想されるかというと、パソコンという中途半端なものは次第に存在しなくなるということが考えられます。第一に、回線速度の上昇に伴ってパソコンは限りなく携帯電話化していきます。100Mbpsが定額で常時接続できるようになれば、ノートパソコンやPDAでわざわざ重い記憶部分や演算部分を持ち運ぶ必要はなくなります。必要なのはキーボードとケーブル(又はアンテナ)だけです。今のパソコンで言うと、本体の部分はサービス会社に全部まかせて、個人が持ち歩くのはキーボードとディスプレイだけということになります。キーボードとディスプレイだけの端末というと、これは携帯電話と同じです。そして第二に、この携帯電話化の方向とは逆に、パソコンを仕事に使う人は、次第にパソコンをサーバーとして使うようになると考えられます。受信機能は携帯電話化し、送信機能はサーバー化し、これまでのようにパソコンにソフトをインストールして使うという使われ方は次第に少なくなっていくと思われます。

 パソコンというジャンルがなくなり、サーバーと携帯電話に二極分化するというのが未来の姿だと考えると、これから勉強する分野は、サーバーの分野になると思います。今、マイクロソフトのワード・エクセル・アクセスを使う認定試験に人気がありますが、これらは見よう見まねで誰でもできるようになるものです。サーバーの分野では、マイクロソフトは大きく立ち遅れています。ウィンドウズというGUIの世界で現在のUNIXに対抗できるようになるためには、ハードとソフトの頻繁なアップグレードが必要になるでしょう。今でさえ、多くのユーザーは、ウィンドウズ98以上のものを求めてはいません。言葉の森はいまだにウィンドウズ95です。ワードやエクセルやアクセスも、オフィス97で十分だという声が幅広くあります。

 パソコンは単なる道具ですが、道具として使いこなすためにはやはりそれなりの勉強が必要です。どうせ勉強するなら将来も役立つ方向の勉強をするということで、これからの若い人はLinuxの勉強をしていくといいと思います。

  低学年の勉強は無理せず気長に

 小学校低学年のころは、勉強の習慣がつく最も大切な時期です。しかし、低学年のうちからあまり勉強的なものをする必要はありません。低学年の時期に、漢字や計算の練習をすれば確かに外見的にはすごく勉強が進んでいるように見えますが、その進歩は学年が上がり、ほかの子も同じことを勉強するようになればすぐに解消してしまいます。

 低学年のころは、そういう一見勉強的なものよりも、豊かな体験、読書、読み聞かせ、親子の対話のような生活の中での学習で力をつける時期です。しかし、読み聞かせひとつを取ってみても、そのときの親の負担はかなり大きいものです。子供が小学校低学年のころは、親も生活で忙しく余裕がないことが多いので、苦労して自宅で読み聞かせをするよりも、塾でドリルでもやっていてくれた方が楽で能率がよいと感じることが多いものです。

 しかし、このわずらわしい親子の関わりの中で子供は成長していきます。長い時間をかける必要はありませんから、最低限、長文の音読を、余裕があれば読書・読み聞かせ・対話を毎日の生活時間の中に位置づけて気長に勉強を続けていってください。

  光る表現(小1−小3) 2001年6月2週号

●クリリンさん(いあし/小1)の作文より(けいこ先生/5.3週)

 (あさがおの)ふたばのじくのいろを見ると、どんないろの花がさくかがわかるそうです。 評:しらなかった! 先生におしえてもらったの? それとも本でしらべたのかな。クリリンさんがそだてているあさがおは、なにいろの花をさかせるかたのしみね。

●くわがたさん(いきと/小2)の作文より(ミルクティ先生/5.2週)

 「やった。ピコピコボーイ金銀が、きた。」と、ぼくは、とびはねながらいった。朝におかあさんから、わたされたけれど、つくったのは、学校からかえってからだった。(はやくつくりたいな。)と思いながらかえってきた。…略…つくるのはむずかしくなかった。たのしかった。一人でつくってできた。さあ、二つのチェックぼうをくっつけた。「ピコピコピーピー。」となった。「はあ、やった。」とあんしんした。<評>書き出しを会話ではじめたところが、くふうしたね。〔とびはねながら〕という せつめいをつけたところもよかったよ。ピコピコボーイ金銀を一人でかんせいさせたなんて、すごいなぁ。でんちをいれるのもじょうずにできたんだね。(^o^)v

●ミニパンダさん(あもろ/小3)の作文より(ミルクティ先生/5.4週)

 (ぎょうざを作ったときのこと)わたしは、つつむとき、ぺっちゃんこになってしまいます。まるでりんごを切るとき、うすくなるようでした。でも、やいてなんとかおいしく見えました。お父さんがかえってきて、お母さんが「これ、はるなが作ったんだよ。」といい、わたしが「おいしい?」と聞くと、「おいしい。」といってくれました。とてもうれしかったです。<評>ぎょうざをつつむときに、くろうしたところを【たとえ】も入れて、ていねいに書けたね。v(^o^) ☆ 料理を作る人にとって「おいしい」という言葉は、最高のほめ言葉だね!

●カヤさん(ありそ/小3)の作文より(ももんが先生/5.3週)

 もし、ぼくがインド人だったら、ハンバーガーを食べる人を、おこるかもしれません。牛を、ばしばししていても、おこりとばすかもしれません。でも、ハンバーガーは、ぼくもすきです。【評:ははは...(^o^)。先生も、ハンバーガー大すきよ。「もし〜だったら」をつかって、とても上手にそうぞうできましたね。】

●崇さん(いえの/小3)の作文より(洋子先生/5.3週)

 …さいごに、若い男の人に竹とんぼの作り方を教えてもらいました。回してみたらすぐばらばらになってしまいました。まるで、ヘリコプタ−のプロペラがばらばらになったようです。たぶん、羽がきちんと入っていなかったからだと思います。評:竹細工でせっかくお兄さんに教わって作ったのに、すぐこわれてしまって残念でしたね。竹とんぼをプロペラにたとえたのは、すごい!いいところに気がつきましたね。(゜o゜)たぶんを使って理由もしっかり書けました。

●翔太さん(いきこ/小3)の作文より(スズラン先生/5.3週)

 (田植えをしたこと)なえをもらってまっすぐなえをじょうずにうえました。そして、半分まできたとき、足がぬけなくてしりもちをついてしまいました。ぼくは、どろ人間になってしまいました。:評:田んぼの中にころんでしまったようすがこのたとえでよくわかりますね。初めての田植えと、どろ人間体験の日でしたね。

●アッキーさん(いそか/小3)の作文より(ももんが先生/5.3週)

 わたしは、一つふしぎにおもいました。わたしがピアノをひいていると、なんこもまちがえるのに、(リチャードクレイダーマンは)一つもまちがえませんでした。五年生のいまむらまいちゃんがひいていました。リチャードクレイダーマンとまったくかわらないぐらいじょうずでした。ママがわたしに、「リチャードクレイダーマンの手は、まほうの手だとおもうよ。」と小さいこえで言ったので、わたしは、「ちがうよ。あれは、まほうのピアノだよ。わたしがひいたら、あのきょくひけるとおもうよ。」と言うと、ママは、クスクスとわらっていました。【評:心の中で思ったことや、お母さんとの会話、とても上手に書けました。先生も、ピアノやバイオリンの上手な人のえんそうをきくと、「あの楽器は、ぜったいにまほうの楽器かもしれない!」なんて、思うことがありますよ(^o^)。】

  光る表現(小4) 2001年6月2週号

●わかさん(あにほ/小4)の作文より(メグ先生/6.2週)

 追い終わったら手が冷たすぎて、かってにうごきます。「わーーお。手がかっ手に動く。グー、チョキ、パーがはっきりできない。」水で手を洗ったら「みずってあったかいなー」っとおもいました。 【例】よほど手が冷たく冷え切っていたのでしょう。水道の水があたたかく感じることってありますよね。

●秀雄さん(あろう/小4)の作文より(ももんが先生/5.3週)

 (犬の)ライム君とレモンちゃんがそろうと、なかよくけんかします。これは、させた方がいいのです。なぜかというと、おたがいかみあったら、「かんだら、かまれた人はいたいのかあ」と、思わせることができるのです。それでもなかがいい兄弟なのです。【評:なるほど! なかよくけんかさせる理由が、とても上手に説明できましたね。】

●諒さん(あろつ/小4)の作文より(森川林先生/5.3週)

  お母さんにこのことわざに関係する話があるか聞いてみたら、「おととい、カーテンポールを付けていたとき急いでいたの。だから説明書をきちんと読んでなくてかんでやっていったの。そしてできたと思ってカーテンを開けようとしたとき、あかないことに気がついてけっきょく一からやり直さなければならなくなったの。」といっていました。◆評:「急がば回れ」の例をお母さんに聞いたところがいいね。くわしく答えてくれたお母さんにも◎。

●稜さん(いしお/小4)の作文より(スズラン先生/5.3週)

 ぼくは急がばまわれを読んで、最初は和歌に使われていたのに今では、生活のいろいろなところに使われていてすごいと思いました。急がばまわれのことわざがなかったら、失敗する人がすごい数になっていたと思います。:評:昔の人は自分の体験を良い言葉で残していますね。こういうことわざを思い出して、ちょっと立ち止まって考えることも必要かもしれませんね。

●圭さん(いそむ/小4)の作文より(スズラン先生/5.2週)

 (アスレチックで池に帽子を落としてしまったとき)ぼくと同じくらいの子が「ぼくもやりたい。」と言ってタイヤにつかまってとりに行ってくれました。最初は、かた手でとろうとしたけれどとれませんでした。次にこうもりのようにタイヤに両足をくんでさかさづりになってとってくれました。:評:「こうもりのように」というたとえで、どんなかっこうをしたのかよく分かりますね。

●直也さん(いそも/小4)の作文より(スズラン先生/5.3週)

 日本では、そばなどめんるいは、音をたてるとおいしそうなので、音をたてるのはいいけど、フランスなどでは音をたてて食べるのは、ぎょうぎが悪いのです。:評:食べ方は国によっていろいろ違いそうですね。分かりやすい例です。やっぱりおそばは音を立てた方がおいしそうですよね。

●みかんさん(いこい/小4)の作文より(ももんが先生/5.3週)

 わたしもお母さんみたいに、楽するのが好きです。でも、しっぱいするのがいやなので、あんまり楽はしません。でも、こんなことを思いました。(もし「これは、楽してもせいこうする。」とか、「これは、ていねいにしなきゃしっぱいする。」とかが分かったらいいのに)。【評:ははは...。本当にそうですね(^o^)。かっこつけずに、とてもすなおな気持ちが書けていていいですね。】

●かずさん(いしす/小4)の作文より(かつみ先生/5.2週)

 ブラックバスはティッシュのはこぐらいのおおきさです。   評:大きさのたとえが、わかりやすくていいね。こういうたとえをつかったり、長さを具体的に書いてみたりすることは、とても大切なことです。

●亜美さん(いそと/小4)の作文より(きょうこ先生/5.3週)

 「おことは、着物を着ている人が、ひいている感じがしました。それは、まるで、さくらの花びらが『チラリラリラ』と、風にふかれて、落ちているようでした。」亜美ちゃんの心の中に浮かんだことがとってもよく伝わってきたよ♪ 感じたことを亜美ちゃんだけの言葉で、とってもじょうずに表現できたね☆

●直也さん(いそも/小4)の作文より(スズラン先生/5.2週)

 「やったぁ。やっとちょう上についたぞ。」のぼってものぼってもけわしい道で、ぜんぜんちょう上が見えなかったけど、ぱっと道がひらいてひろばみたいに道がひろくなりました。:評:頂上に着いたうれしさがぐっとせまってくる書き出しですね。思わず読み手も「ばんざ〜い」と言いたくなるようです。

  光る表現(小5−小6) 2001年6月2週号

●あずささん(ありな/小5)の作文より(メグ先生/5.2週)

 私は、運動会の歌の指揮をやることになってしまいました。(中略)最初は、いやでいやでたまりませんでした。でも、クラスの授業での音楽の時にみんなの前でやったりしているうちに、なんとなくほこらしいような感じが出てきて、いやな感じがちょっとふっとんでしまいました。《評》あずささんの気持ちの変化がよくわかります。最初は緊張していても、いざやってしまうと、度胸がすわってくることってよくありますよね。

●うさぎさん(いそに/小5)の作文より(スズラン先生/5.2週)

 この金魚は、おまつりで買った10円金魚です。今では、ぐんぐん大きくなって子供の金魚までいます。みんなは、「10円の金魚のくせになかなかやるのぉ」など言います。:評:長い間飼っているうちに親金魚になった10円金魚、育てたかいがありましたね。育てる楽しみがふえますね。金魚の恩返しかも。

●穂香さん(すよ/小5)の作文より(きょうこ先生/5.3週)

 「朝ごはんの量が少ないときに学校へ行くともう二時間目ごろには、おなかがなる。死にはしないけど、ちょっとくら〜っとくる。」食べないとお腹がすく点では、人もモグラと一緒なんだね。でも、「死にはしないよ!」という点がユニークだったね(笑)。モグラと人間の違う点、発見!だね。

●シュシュさん(あさつ/小6)の作文より(メグ先生/6.1週)

 私から見るとお母さんの長所は、おもしろくて、よくわたしをほめてくれるところだ。私が嫌いなピアノを練習したときや、テストの点がいいときや、自分からお手伝いをしたときなどだ。ほめられると、次もがんばろうと思ってやるきがでるし、うれしい。それに、すこし、テストのてんがわるくても、おしかったね、や、つぎはがんばってね、や、もう少し勉強したらなどと、やる気の出る言葉をいってくれる。《評》本当優しく、思いやりのあるお母さんであることが伝わってきます。

●おこじょさん(あめお/小6)の作文より(メグ先生/6.1週)

  先生の面白い点は2つある。 まず1つ。先生の顔である。これは作文に載せることでもないが、顔がとても大きい。 2つ目。先生は同じギャグを2週連続して言う事だ。例えば、「中国」は英語でチャイナという。そこでいきなり、「チャイナに行っちゃいな!!!!!!」…、なんともいえないギャグだ。しかもそのギャグはその日で終わらないのである。次の週、前回の復習をやっていた。その時も「チャイナに行っちゃいな!!!!!」前の週は「さむいよー!」とか「つまんねー!」などの、通称『ブーイング』というやつが飛んだのだが、この日は、誰も何も言わなかった。先生は、「は〜い、つぎいきましょ〜」といって次の学習に進んだ。《評》トマト先生の魅力ある授業の一こまを生き生きと書くことができたね。

●俊輔さん(あやゆ/小6)の作文より(かつみ先生/6.1週)

 『種に交われば赤くなる』ということわざがあるように、面白い先生が担任であると、クラス全体の雰囲気も良くなるという事が分かった。  評:本当にそのとおりだね。俊輔くんも、そういう明るいオーラをだすような人になってくださいね。

●シュンさん(あよぬ/小6)の作文より(きりこ先生/5.2週)

 ふと見ると桜の花びらがとんできました。そして息をふきかけると「プー」と音がしました。<おもしろい体験をしましたね。>

●たかやんさん(いくの/小6)の作文より(スズラン先生/5.3週)

 日本語は、日本人にとって敬語を使う点などでは使いにくいが、昔から使われている伝統があり、ていねいな言葉なのでこれからも残していきたいと思う。:評:敬語は日本語の難しい点ですが、この敬語の使い方で人と人との和が保たれている場面が多いですね。

 

 

  光る表現(中1) 2001年6月2週号

●A.Lさん(あそき/中1)の作文より(森川林先生/5.3週)

 僕の学校の社会の先生は、間のとり方がうまい。だけど、話の途中で時々ダジャレをとばすのだ。例えば、「アーリア人が印度に侵入した時、原住民はなんて叫んだか。アーリア。」とか、「打製石器はださいからか。」など、みんながしらけるようなものが多い。 ダジャレならば、技術の先生が言った、「薪を作るときに、斧を振り下ろすと薪がオーノーと言って、斧がおのれーと言って木を切る、ということはありませんけど……。」という方がみんなにはうける。◆評:間の取り方が大事だという意見で、おもしろい身近な例を挙げたね

●ホームズさん(なか/中1)の作文より(ミルクティ先生/5.4週)

 確かに学習をしないというのも遊び好きの僕にはいいが(^_^;)、人間が生きて行く為には学習が必要である。それに、人類が何故学習をやめないかというと学ぶことが楽しいからだと思う。ともかく、学習は必要である。これからも努力を惜しまず、いろいろな面の学習をしていきたいと思う。※ちなみに、中間テストに向けて学習をした僕…。その後どうなったかは、皆さんの想像にお任せする。<評>真面目な結論を真面目に語るだけでなく、ユーモアのある表現を書き込んだことで、より個性的な文章になっているね。

●SIGNALさん(あつえ/中1)の作文より(かつみ先生/5.2週)

 とにかく知識を求めて本をもうれつに読み始めた。  評:知識を求めて、という表現と、もうれつに、という表現がとてもよかったよ。貪欲な気持ち、ハングリー精神、そいういうニュアンスが伝わってきます。

●たごさくさん(あによ/中1)の作文より(ミルクティ先生/5.3週)

 第一の理由は、間がないとわかりにくいからである。たとえば、文章を会話とし、間を句読点とすると句読点が一つもない文章は何が書いてあるのか、また音読するときもどこでくぎっていいのかさっぱりわからない。似たような話に音楽では、息をすう記号のことを休符というがこの休符がなければ、息をすえなくて死んでしまうではないか。こんなに身近に間の大切さはあったのである。<評>「間」について、句読点、休符というわかりやすい例をあげて説明したところがいいね。誰でもよく知っている、体験したことがある、そんな例は、書き手の言いたいことを読み手にしっかり伝えることができるね!

●あつしさん(あむら/中1)の作文より(きょうこ先生/5.3週)

 「まるで、三ヶ月たったら150cmから身長が165cmになるように話し方が上手になると思う。」なるほど! 目には見えない成長の部分も、こうして目に見える形にたとえて表現してみるとわかりやすいものだね♪

●ムーミンさん(あやめ/中1)の作文より(メグ先生/6.2週)

 人は一度どのような物なのかどのような意味があるのかということがわかると、それにたよってしまって、自分自身の感じたことを考えなくなってしまうようである。 【評】世間の評判や他人の意見が知らず知らずのうちに先入観となってしまうこと、よくありますよね。

●龍太郎さん(いあせ/中1)の作文より(メグ先生/6.1週)

 勉強を勉強と思わなければ良いのだ。ゲームだと思えば、きっと楽しくなるだろう。しかし、一番良いのは、やっているうちに楽しくなることだ。 《評》確かに、数学などでは、ゲーム感覚で解ける問題もあるでしょう。でも、やはり、勉強の楽しさは、すぐに手に入れられるものではないかもしれないね。

●奈央さん(いしえ/中1)の作文より(メグ先生/6.1週)

 例えば、漢字を覚えるとする。漢字は、普通「漢字っておもしろいな。」とか「これはどのようにできたのだろう・・・。」とか考えながら覚えている人の方が覚えられているだろう。反対に、「つまらないなあ・・・。」とか「どうしてこんなの覚えなくちゃいけないの?めんどくさい。」とか思っている人は、漢字を覚えるのが大変であろう。このように、勉強には気持ちが大切なのである。《評》本当に、気持ちの持ち方ひとつで、勉強のはかどり方が違ってきますよね。

●DARIAさん(さあ/中1)の作文より(にこにこ先生/5.2週)

 私は、ボールがゴールに「スパッ」と、きれいに入るときのうれしいという達成感をしっている。自分のシュートが入ればどれだけうれしいかもしっている。☆☆☆実際にバスケットボールをやってきた人だから書ける、実感のあふれた表現だね。

●ホームズさん(なか/中1)の作文より(メグ先生/6.1週)

 確かに,学校の勉強など、押し付けられたかのようにやる勉強は,あまり楽しいとは思わないが,学ぶと言うのは,そう言った勉強ばかりではない。人間が生きて行くうえで,切っても切れない縁なのは、学ぶと言うことだと思う。これは,必ずしなければいけないことなのだ。それを,いかに能率よくやって行くか。それを考えたときに,「楽しく」と言う言葉が浮かんでくるのである。 《評》生きていくことそれ自体が学習であると言っても過言ではないですよね。どうせなら、楽しく学び続けたいですよね。

●しっぽさん(ほし/中1)の作文より(メグ先生/6.1週)

  私は小学校のとき通っていた塾で、どうしてもわからない分野があった。理科の磁石だ。「え〜とだから、右手の法則でえ……。」と先生がわかりやすいようにみんなに説明する。「ああ!そうかあ!」みんなが発見の喜び(?)を声に出す。一人だけ取り残されていくのがまわりを見渡さなくてもわかった。帰るとすぐに理科のテキストを開いた。何度読んでもわからない。いらいらして、貧乏ゆすりを始めた。そのうち、わからない自分に嫌気がさして、涙があふれてきた。泣きながら、消しゴムをあちこちに投げた。(笑)でも、必死に理解しようとした。 そして、次の授業の時……。全ては理解していなかったはずだが、努力したかいがあって、ほとんどわかるようになった。すごくうれしかった。その時、また勉強をする喜びを思い出したのである。《評》勉強する喜びを見出すまでの、しっぽさんの心の動きがみごとに表現されているね。

 

  光る表現(中2) 2001年6月2週号

●SAPPHIREさん(ああす/中2)の作文より(ミルクティ先生/5.2週)

 シンプル・ライフも現代の生活もどちらも大切だが、一番大切なのは、自分自身がよいと思う生き方だと思う。シンプル・ライフがいいという人も、私みたいによくないと思う人も様々である。決して人の意見に左右され生き方をかえてはいけない。自分が「よい」と思う道をすすんでいくのだ。<評>Aがよい、Bがよい、という単純な結論ではなく、【総合化の主題】として、より次元の高いところでまとめることができたね。同じ人でも、年代、置かれた状況によって暮らし方の好みが変わることもあるだろうけれど、自分らしさ、自分の考えをしっかり持ち続けることが大切なのだね。

●おかゆさん(あすこ/中2)の作文より(ふじのみや先生/5.2週)

 人は物をたくさん持っていれば、安心するのだと思う。これだけたくさんあれば大丈夫だ、何があっても心配はないだろう。そう思うのだ。だが、そういう人に限って、何かあったときどうしたらいいかわからないのではないだろうか。今ある少しのものをどう生かすべきか、そういう発想が失われてしまうからだ。 評:物が多すぎると、自分の姿が見えにくくなる…これは、今の時代全体にあてはまる問題でもあるね。

●スライムさん(あめひ/中2)の作文より(メグ先生/5.2週)

 また本当に機械化する必要かどうか、疑うようなものまで機械になってしまっている。機械化しすぎてしまったために、失われているものもある。それは自然だ。二酸化炭素による地球温暖化や砂漠化、酸性雨などこれまでにはなかった問題が次々に浮かび上がってきている。《評》機械化され、便利になった生活の裏側で、失われているものにも目を向けながら、先に進んでいく必要がありそうですね。

●コナンさん(あろあ/中2)の作文より(ミルクティ先生/5.2週)

 Bさんは便利を好むためついつい物がふえるそうだ。…略…Bさんの意見だが「ガーデニングなどは無くても生活はできるがあったほうがおちついて、家に帰ってきたなぁ」と思うそうだ。<評>〔シンプルな暮らし〕とは対極にある〔ものがたくさんある暮らし〕…そのよさについて〔ガーデニング〕という実例を使って、ものがあることで得られる気持ちの平安を主張したところが個性的!

●茉有さん(ああの/中2)の作文より(ポプリ先生/5.3週)

 私の立場から親へ言うなら「私の意志はそん重してほしい。たまにはぶつかることもあるだろうけど、そのときは一方的に意見をおし通さないで、ちがう意見もきこう」だ。何でも親の言うことをきけばいいわけではない。「人の意志をそん重する」というのは、私は「自分の意見とくらべてみて、良い所も悪い所も認める。」ととらえる。父親も、上下関係が正しく、役割りをこなせるのが本当の父親だと思う。評:本音を率直に。よく書いてあります。

●玲子さん(あたゆ/中2)の作文より(メグ先生/5.3週)

 厳しすぎず、優しすぎず、その場その場でひとつずつ表情の変えられる父親が今は必要なのではないだろうか。《評》ほめるときにはほめ、しかるときにはしかる、そんあメリハリのあるしつけ方ができる父親が求められているのかもしれないね。 

●沙織さん(いそよ/中2)の作文より(ミルクティ先生/5.2週)

 桜の散る姿…。それは想像できても、言葉で表すのは難しい。作者が言ったように、それに似た言葉はあるとしても、ぴたりとはまる言葉はない。<評>書き出しの段落です。情景の描写で読み手にイメージを想起させ、かつ、これから展開する意見についてしっかり書けていて見事ですね。

●エガさん(てせ/中2)の作文より(森川林先生/6.1週)

 このような人間の心理につけこんできた王の考えを覆すかのように、メロスと友人はお互いを信じ会って再開した。決して真実ではない。しかし、このような感動は、われわれにもできるはずだ。◆事実ではないが真実である、という昔話の実例。国語の教科書でやったんだね。

 

  光る表現(中3−社) 2001年6月2週号

●太一さん(あうけ/中3)の作文より(ミルクティ先生/5.3週)

 しかし、これが試験前だと、いくら睡眠不足で眠くても「試験前だから試験勉強に取り組まなければ」というニーズが睡眠欲というウォントにブレーキをかけ、眠気解消策を練って勉強に取り掛かるのだ。しかし、いくら勉強に取り掛かったとは言っても、所詮はニーズだ。勉強を終える時間になるや否や、机から勢い良く離れていく。このときには、「もう自由時間を取りたい」という強いウォントに支配されているのだ。また、勉強中にニーズがウォントに負けてしまうことも時々ある。だから、僕が今以上勉強をするようになるためには、ニーズからウォントに切り替えなければならないのだと思う。<評>自分の中にあるニーズとウォンとの葛藤を試験前の状況という具体的でわかりやすい例で書いたところがいいね。しかも、冷静かつ客観的に自己分析しているところに太一君の意思も感じられます!

●たこたこさん(こむ/高1)の作文より(きょうこ先生/6.1週)

 「ぐちゃぐちゃな絵は大好きなママの絵を描いたなんの欲望もない絵なので美しいと感じるのである。」なるほどぉ! 大好きなママという気持ちが、ただただ純粋に子供に絵を描かせたんだね。美醜の対立を超越している物を表すのにふさわしい題材だね☆

●舞さん(あおき/高3)の作文より(こあら先生/5.4週)

 小学校一年生の頃の学校までの道のりは道ではなかった。ドキドキやワクワクを凝縮した、不思議な世界そのものであった。評)幼い時に新しいことに挑戦したことを思い出しました。あの頃ってバスに乗ったりすることだけでも冒険でしたものね。

●ひまわりさん(あなつ/高2)の作文より(こあら先生/5.3週)

 涙を多く流した人ほど人の気持ちがわかるというけれど、まさにその通りで、自分が分からなければ、相手のことなんてそう簡単にわからない。評)ひとつの事柄を裏表から説明して、言いたいことをはっきりと浮き彫りにしています。

●○○○○さん(うい/高2)の作文より(けいこ先生/5.4週)

 ものに感情があるのかどうかはわからない。ものよりも遥かに近い人間同士でさえわからないのだから。しかし、感情があるとみなせるのが大切なのだ。そう思えるということが人間としての特権であるし……。 評:

●眠雨さん(うき/高2)の作文より(ミルクティ先生/5.3週)

 相手の痛みを想像することは、決して無駄ではない。痛そうだ、かわいそうだ、そうしたごく自然な感情の発露と共に、人の文明はここまで進歩したのだ。ネアンデルタール人は、ひとり眠る死者へ花束を贈った。その身へせめて寄り添うようにと、願ったかどうかはわからないが。今や花束は土に埋もれ、花粉はコンクリートに覆われた都市をあてどなく舞う。現代に足りないのは、かつてのかれらの「同情」ではないだろうか。ひとの痛みを我が物のように感じる、古臭くも人間らしい、その風土ではないだろうか。<評>他者の痛みを感じることのできない人が増えている、という現代の問題について書いた意見文の最終段落。ネアンデルタール人のエピソードが、現代人の薄情さと対照的で効いています!

 

 

—————————————————————————————

■オンラインマガジンの登録と削除は下記のページで■

http://www.mori7.com/morion/imorion.html

■これまでの言葉の森新聞は下記のページで■

http://www.mori7.com/mori/komori/indexmori.html

■ホームページ■

http://www.mori7.com/

■メール■

nane@mori7.com