言葉の森新聞2005年4月3週号 通算第883号
文責 中根克明(森川林)

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■■賞品のクラウンについて
 現在、賞品のクラウン数は、金賞10クラウン、銀賞5クラウン、銅賞1クラウンとなっています。
 言葉の森の入会したばかりの生徒が、賞品の50クラウンまでためるのには時間がかかるので、入会した時点で最初に50クラウンのボーナスをつけることにしました。
 4.3週の山のたよりから、全員に50クラウンが加算されます。


■■国語の勉強法(その2)
 ……国語の力をつけるための第二の重要なアドバイスは、次回に。(つづく)
 3.3週号の続きです。
 第二のアドバイスは、点数に一喜一憂するのではなく、実際に親が子供と一緒に、できなかった問題を解いてみるということです。これは、小学生のうちだけでなく、中学生や高校生になっても有効です。
 しかし、その場合、問題は、模擬試験や過去の入学試験のようにじっくり練られたものであることが必要です。模試や入試の問題は、受験生の実力を見るために時間をかけて作成されています。そのため、理詰めで考えて解いていくことができるのです。
 子供と一緒に問題を解いてみると、意外なことがわかると思います。よくあるいくつかの例を挙げてみましょう。
 小学生で多いケースは、問題文を読むスピードが遅いので、あてずっぽうで答えて×になるという例です。時間をかけて考えればできるのに、試験ではできないというのは、大抵このケースです。これは、実は思ったよりも重大な国語力不足で、短期間で成績を上げることはできません。読むための基礎的なが不足しているからです。速読力は、読書量に比例しています。小学校中学年のころまでに、好きな本をたっぷり読んだ子は、自然に速読力がついています。しかし、この場合の読書は、学習漫画や図鑑のように文の長さが短いものではありません。学習漫画は決して悪いものではなく、歴史の漫画などは、全体像を把握し、歴史に親しみを持つことには大いに役立ちます。しかし、漫画の吹き出しのような文章ばかりを読んでいると、長い文章を読む力が低下してしまうのです。小学校中学年までは、勉強する時間よりも読書をする時間を優先するぐらいの方が、高学年になってから本当の実力がついてきます。
 しかし、読む力が遅いということが問題になるのは、小学校の高学年のころまでです。その後、中学、高校と年齢が上がるにつれて、読むスピードは自然に上がってきます。それは、単純に、年齢に応じて読む量が増えていくからです。どんなに本を読まない子でも、学校の授業で教科書を読む時間は必ずあります。それが歴史の教科書や生物の教科書であっても、学校生活で活字を読まないということはまずありません。読む量が増えれば、読むスピードは自然に速くなっていきます。
 したがって、速読力のない子の場合は、受験が間近であっても、読む練習をすることから国語の勉強を始める必要があります。読む勉強をするときの最も手っ取り早い教材は国語の問題集です。しかし、問題集には読書に没頭するような面白さがありません。受験が終わってから、じっくりと読書をする習慣をつけていきましょう。この読む力がないままに、いくら国語の問題を解いたり解説を聞いたりしても力はつきません。
 第二のケースは、逆に、読む力のある子に見られる例です。問題に対する答えを、文章全体から考えて自分の体験に照らし合わせながら答えてしまうのです。例えば、「このとき、浦島太郎がカメを助けた気持ちはどんなだったでしょう」などという問題で、その問題文の前後の文章から答えを探すのではなく、自分の体験から類推して答えてしまうのです。「そういえば、この前、ミドリガメを買ったときは、こんな気持ちだったなあ」という答え方です。
 国語の問題の答えは、設問で指示されている部分の前後5行ぐらいの中にあるのがほとんどです。普通の易しい問題では前の5行の中に、やや難しい問題では後の5行の中に答えが隠されています。もし、それ以外のところに答えが隠されているようならば、それは悪問です。できなくても仕方がないと考えておくとよいでしょう。
 読む力があるのに×が多いという子には、「答えは文中にある」ということを教えてあげると、それだけで成績が大きく変わることがあります。
 第三のケースは、中学生などによく見られます。自分の知らない難しい言葉があると、それを正解に選んでしまうというケースです。このこと自体はそれほど大きく点数に響くものではありませんが、こういう答え方をするその発想に実は大きな問題があります。
 テストというものは、よい点数を取るためにあるのではありません。もちろん、入試のようによい点数を取って合格することが目的になるテストもあります。しかし、ほとんどのテストは、自分の実力を評価し、その後の勉強に生かすためにあるのです。それが学校の定期試験でも塾の席順を決める試験でも同じです。ですから、わからない問題があったときに、勘で答えて○になってしまうと、その問題ができなかったことがわからなくなってしまいます。つまり、点数はよくなっても実力はかえってつかなくなるのです。
 子供はどうしても目先の点数だけに目が行きます。人生経験の長い大人は、長期的な視野を持って、わからない問題は、適当に答えを入れるのではなく、わからないままに残しておくことが大切なのだと教えてあげてください。
 さて、最も重要な間違いのケースは、合っていそうな答えを選んで×になる例です。国語の問題の答え方は、合っていそうなものを選ぶのではなく、必ずしも合っていそうでないものを選ばないというやり方です。これを消去法と言います。
 もし、国語の答えが、合っていそうなものを選ぶだけで作られるとしたら、学年が上がるにつれて問題作成はどんどん困難になります。高校3年生の生徒に、普通の日本語の文章を読ませて、そこから正解を問うような選択式の読解問題を作るのは至難の技です。そのために、国語の問題は、問題文自体を難解な悪文にしたり、読む量を増やしたり、これから説明する消去法で解くような歪んだ方向に向かってしまうのです。この歪んだ国語問題をなくすには、選択問題を減らし、記述問題、特に小論文を増やすことが必要です。
 さて、次回は、消去法で答える例を、実際の大学入試センター試験から取り上げてみましょう。(つづく)


■■父母の広場より

課題が使いにくい(小2父母)
 課題の短文集、長文集が使いづらいです。せっかくの題材ですが、ずらずらと並んでいて見にくくほとんどやっていません。もっと小さい用紙に1回分ずつ印刷して子どもが自学自習しやすい方式にしてほしいです。(K文式のように)子どもは1回1回終わった、やったという達成感がないと自分から取り組まないと思います。

勉強の中身は退屈(教室より)
 長文音読の勉強は退屈なものです。
 ときどき、もっと教材を工夫して子供にやる気を出させるような工夫をしてほしいという声を聞きます。
 確かに、子供が取り組みやすい教材という点については、今後改善したいと思っていますが、言葉の森の基本姿勢は、勉強は退屈でもやるということです。
 教材を工夫して、次々と目新しいものを渡すという形を取ると、子供自身は目先に刺激があるので一時的に熱心に取り組みます。しかし、すぐに飽きてきます。飽きないようにするために、次々と新しい形のものを出せば、教材がふくれあがり、そのうち何をどこまで取り組んだのかがわからなくなります。
 今の社会は、特に問題集や参考書などの教材が豊富ですから、1回しか取り組まないたくさんの教材に囲まれて勉強するような生活になります。勉強の仕方の理想は、1冊の薄い教材を何回も繰り返して使うことです。勉強の仕方の最も悪いパターンは、何種類もの教材を1回だけしか使わないということです。
 言葉の森の教材で長文音読を毎日していると、子供は、勉強とはこのように同じものを繰り返すことだと自然に納得していきます。
 この勉強の仕方は、ほかの教科でも同じです。家庭学習で、市販の問題集をやっている家庭は多いと思います。この場合も、親がこの1冊と決めたら、その問題集を、できない問題が1問もなくなるまで何回でも繰り返しやっていく必要があります。そういうやり方をすれば、必ず子供は、「もうこれは飽きた」と言い出します。しかし、そこで、新しい問題集を買ってやらせると、すべては元の黙阿弥です。子供は、既に4回も5回もやった問題集のできなかった問題をもう一度やるよりも、新しい問題集に初めから取り組んだ方がおもしろいはずです。しかし、そういう勉強の仕方は、勉強の外見だけの自己満足にすぎません。勉強の中身は、同じものを反復するという退屈さの中にあるのです。
 しかし、そう言うだけでは前進がないので、今後、自習の仕方をチェックするような工夫を指導の中に入れていきたいと思っています。


ご参考までに(小3母)
 我が家の子供たちも、最初の数ヶ月は同じ様子でした。特に小2長文で文字が小さくなった時は、行は飛ばして読むし時間はかかるし大変でした。そこで毎日父親が長文・短文だけは口出しせずに横で聞き、1回読んだらシールを貼るようにしました。毎日強制的にやり始めて2〜3週間すると、子供から進んで取り組むようになりました。小3の今では、初めて読む時は蛍光ペンを持ち、読めない漢字・意味のわからない言葉に線を引くようになりました。時々辞書を引くこともあります。(1)目に付きすぐ手に取れる場所に置く(2)登校前や食事の支度中など空いた時間にさっとやってしまう(3)シール貼りや冷蔵庫のマグネットなど小道具を活用 など親の工夫の余地があると思います。用紙を小さくするのであれば、コピーをとって切り貼りして単語帳のようにカード式に編集されてはいかがでしょうか。一度 自習の習慣がつけば、案外毎日続くので、是非頑張ってください。

音読の課題以外の素材文について(小3母)
 うちの子は、読解力や語彙の数などはまだまだですが、音読、作文は好きで言葉の森の課題は楽しんでやっております。自分で表現することが好きなタイプで、あまり人の話を注意深く聞くタイプではありません。それで自由に表現できる、音読や作文は取り組み易い様なのです。
 国語力をつけるには子供の好きなことをさせながら伸ばしてやりたいと思っております。何か課題文以外で、音読のいい素材文はありますか? 齋藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」などはどうかと思うのですが。


音読は繰り返し読むことが大事(教室より)
 「声に出して読みたい日本語」は、一時ブームになり、寿限無(じゅげむ)を暗誦できるような子が次々と出てきました。しかし、これは一過性の流行として現れた文化現象です。
 言葉の森の音読の考え方の基本は、子供たちが作文や小論文を書くときに生かせるような音読です。つまり、文章を書くことが目的の音読です。
 昔から伝わっている有名な文章をただ寄せ集めただけの音読教材は、音読という方法がまず最初にあって、肝心の目的がどこにあるのかよくわかりません。
 ですから、お母さんが音読の教材を選ぶときは、子供の表現力や思考力をつけるという観点で独自に選んでいかれるとよいと思います。その場合、大事なことは、一つのものを何十回も繰り返し読むということです。不思議なことですが、大人でも、一つの文章を二十回も読むと、二十回目にまた新しいことがわかるということがよくあります。読むと一口に言っても、その深さはそれほど違うのです。
 言葉の森の名言集に、「精読とは繰り返し読むことである」という言葉があります。繰り返し読むことがまずいちばん大事です。読み方は、本当は黙読でも音読でもいいのですが、黙読で二十回読むということは、普通の人間にはできません。自分が何をやっているかわからなくなってくるからです。だから、繰り返し読むために音読という方法を使っているのです。


■■本との出会い(しまりす/きらら先生)
 春は出会いと別れの季節。私も、いろいろな人に出会ってきましたが、今日は人ではなく「本との出会い」について書くことにします。

 「いちばん印象に残っている本はなんですか?」ときかれたら、私は迷わず「幸田 文(こうだ あや)さんの『おとうと』です。」と答えるでしょう。小学生のみなさんは、まだ知らないかもしれませんね。お父さんやお母さんにきいたら、わかるのではないでしょうか。
 私がこの本と出会ったのは、大学生の時でした。母親に「この本、とてもいいから読みなさい」と言われたのがきっかけです。(大学生にもなって、親に読みなさいと言われて読むなんて、ちょっと恥ずかしいかな・・・。けれど、とても感謝しています。)「ふーん、どんな本かな」と思いながらその本を開いた私ですが、初めの一行目から、もう夢中になってしまったのです。
 それまで、ストーリーに引きつけられ、感動したことはたくさんありましたが、「文章」にこれほどの魅力を感じたのは初めてのことでした。この本から美しい言葉をたくさんたくさん浴びて、心の中まで洗われたような気持ちになったのをよく覚えています。『おとうと』を読んだあと、しばらくは幸田 文さんの本ばかりを読んでいました。
 
 幸田 文さんの本との出会いは、その後の私にも大きな影響を残しました。私の娘の名前は「文(あや)」です。娘が生まれる前、どんな名前にしようか考えたとき、男の子か女の子かわからなかったのに、「文」という名前しか考えられなかったのです。もし、男の子が生まれたらどうなっていたんでしょうね……。娘が生まれて、助産婦さんに「女の子ですよ」と言われたときは、かけっこで一番になったような気分でした。赤ちゃんが生まれたというよりは、「やった!あやが生まれた!」という感じです。
 
 本との出会いも、人との出会いと同じくらい、おもしろいと思いませんか? 大学生のときに出会いがあった私ですが、これは遅すぎるぐらいだと思います。中学、小学校高学年ぐらいでも、その後の人生を変えるような本に出会うことがあるかもしれません。この春、みなさんにすてきな出会いがありますように……。

<<えa/714み>>


■■句読点の打ち方(いろは/いた先生)
 句読点の打ち方ってむずかしいな、と感じている人はたくさんいるのではないかな? 先生も小学校3年生くらいのころ、どこでどう打てばいいのか悩んで、やたらめったら「、」を打っていたことがあります。たとえば
★「けさ、おかあさんが、ごみを、すてに、いきました。」
 これだけ打って、やっと安心したものです。でもなんだか変でしょう? 文章が切れ切れでまるでロボットがお話ししているようではありませんか。そもそも「句読点」ってなんでつけるんだろう。そんな疑問にぶつかります。一般的に「句読点というのは文章の息継ぎをするところを示すもの」という説が圧倒的に多いようです。たしかに息継ぎの場所がわからなければ、読んでいる人は苦しくなりますね。でも苦しくなるだけではすまないこともおこります。次の文章を読んでみましょう。
★ 明日は降る天気ではない
 この文は句読点「、」「。」が打たれていませんね。でも打つところによって意味がちがってくる文章なのです。
★の文は「明日は降る。天気ではない」と「明日は、降る天気ではない。」というように句読点が打てます。一つ目は「雨が降る」二つ目は「晴れる」という意味になります。
 ただなんとなく存在しているだけのように見える「、」「。」が正反対の意味の文章に変身させる力を持っているのです。私たちはこの小さな脇役(わきやく)の存在にも時々、目を向けてあげましょう。
 項目表を見ていると下のほうに「てんをつける場所」が書かれています。「、」はつけすぎると文章が切れ切れになって読みにくくなるという性質があるので「長い文で2〜3こくらい」「項目表にかかれている場所につける」としてみましょう。この小さな脇役たちはよろこんで、文章を読みやすくする手助けをしてくれますよ、きっと。 (^▽^)v
〜お母様方へ〜
 子どもというものは「句読点をどこで打つか」で悩みすぎて「ここかな」「ここにも打っておこう」という調子で進めていくといつのまにか文節ごとに「、」を打っている状態になります。(体験談です^^ゞ)これは長文を読み続けているうちに自然と直ってくるものなので、あまり気になさらないでください。親である私たちまでが神経質になるとますます直らないのがこの「句読点病」だと思うのです。「木を見て森を見ず」ということにならない作文指導を心がけたいと思います。(^-^)
                      <<え11み>>


■■ことばを楽しむ(みのり/まこ先生)
 私はかねてから作文を書くことは、音楽や絵、スポーツと同じように楽しむものだと思ってきました。子供たちに少しでもその楽しみを知ってもらえたらいいなあと考えています。
 最近、『創作力トレーニング』(原 和久著)という本を読んでうれしくなりました。著者が私と同じようなことを考えている先生だったからです。原先生は、アメリカで一番びっくりしたことをこんなふうに書いています。
 『教室や図書館で子供たちがごく自然に小説や詩、あるいは日記や漫画などを楽しみながら書いている姿でした。(中略)小学生から高校生まで程度の差はあれ、どの子供も「書くこと」が本当に好きらしく、いろいろなジャンルの作品を作っては私に見せにきました。』
 ほら、やっぱり! 作文は楽しいものなんだという私の意見が証明されたようでとても愉快でした。日本ではこれほどの光景は見られないかもしれませんが、日本の子供たちが作文にまったく関心がないとは思えません。
 インターネットでは、日記や物語を発表している子供たちがたくさんいますし、いろいろな文芸賞で高校生が入選することもめずらしくなくなってきました。それに芸能人や有名スポーツ選手はあたりまえのようにエッセイを書いています。
 ことばで表現することは、だれにとってもそれぐらい魅力的な作業だということです。
 それなのに、どうしてこうつまらないイメージを持ってしまうのでしょうか。
 先の本では、読解力の向上を重視しすぎて、同時に養うべき「想像力」や「発想力」あるいは「表現力」がなおざりにされがちであると述べられていました。何となく読解力があれば、国語力があるということになって、そうすれば作文も自然に書けるようになると誤解している人は少なくないと思います。
 それでは読解力をつけるにはどうすればいいのでしょうか。
 言葉の森で読むことを大事にするのは、読解力をつけるためだけではありません。ですから完全に長文を理解することを求めることはありません。難しい文を読むことによって、今まで知らなかった言葉のリズムや個性的な表現を体験してもらいたいのです。かっこいい、使ってみたいフレーズを発見してほしいのです。そういう体験を重ねていくことによって読解力は向上していくのです。読解力は、知識だけでは身につかないのです。
 長文を体験することは「想像力」や「発想力」あるいは「表現力」とも無関係ではありません。長文を読んで、知らないことやわからないことが出てきても想像してみることはできます。さらに、自分ならどうするかと考えることは、発想力がなければできません。
 ところで「想像力」や「発想力」あるいは「表現力」は、案外勉強の邪魔になるようなマンガがヒントになったり、無駄と思えるような生活体験がものをいったりするものです。生活のすべてが作文の勉強になるのです。
 もう一度、思い出してください。読んだことや聞いたこと、見たこと、したことについて思ったこと、感じたことを誰かに伝えることはつまらないことでしょうか。「伝えたい!」と思いませんか。だれかに「伝えたい!」と思うようなことがいっぱい見つけられるといいね。
<<え2004/790み>>


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