言葉の森新聞2005年12月2週号 通算第914号
文責 中根克明(森川林)

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■■「中学生からの作文技術(本多勝一)」批判(1)
 作文指導に関してテキストとなるような本が少ない中で、この本が中学生の作文指導に使われることもあると思うので、何点か批判を書いておきたいとと思います。

 第一は、読点の打ち方についてです。本多氏は、「長いかかる言葉が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ」と述べています。これはそのとおりです。また、かかる言葉の順序として、「句より節を先に」「長い言葉から先に」と述べています。これもそのとおりです。
 例えば、「村はずれにあるうちの雑木林を開墾する」という文があった場合、「村はずれにある→雑木林」「うちの→雑木林」と、かかる言葉が二つあります。これを、短いほうのかかる言葉を先にして「うちの村はずれにある雑木林を開墾する」と書くと、誤解が生じる可能性があります。だから、本多氏の説明で言うと、「うちの」を強調して先に置きたい場合は「うちの、村はずれにある雑木林を開墾する」とするということです。これも、そのとおりです。
 しかし、ここからが問題で、本多氏は、「村はずれにある、うちの雑木林を開墾する」のテンは不要だから間違いだと主張します。理由は、「村はずれにある」という言葉は終止形と同じなので、マルと誤解されるからだと言うのです。もちろん、その可能性はあります。しかし、かつての国語表記法では、このテンを打つ方が原則だったのです。
 昭和21年3月に文部省教科書局で作成された句読法の案では、「テンは副詞的語句の前後にうつ」「その上で、口調の上から不必要のものを消す」「形容詞的語句が重なる場合にも前項に準じてうつ」としており、その例としてしっかりと「村はづれにある、うちの雑木林を開墾しはじめてから、」という例が載っています。
 句読点が日本語の中に成立したのは、たかだか百年前後のことです。テンの打ち方については、まださまざまな揺れがあるのです。特に読みにくくなければ、いずれも許容範囲です。どれか一方が正解で他方が誤りだというのは、頑なな見方だと私は思います。
 また、終止形と同じ形だと誤解されるとは言うのは、あまり説得力のある理屈ではありません。例えば、私たちが口頭で話す場合、長いかかる言葉が二つ以上あるときは、それが終止形であっても、いったん息を継ぎます。「村はずれにあるうちの雑木林を」というのは一口でも言えますが、「村はずれにあるうちの古い大きな雑木林を」という文になれば、多くの場合、話し手は「村はずれにある」でいったん息を継ぎます。そのときに聞き手は、「村はずれにある」までを聞き、その後それが終止形となるか連体形となるか二つの可能性を予測しながら先の言葉を待っているのです。だれも、「終止形で息継ぎをするなよ」などとつっこみません。(笑)書き言葉は常に話し言葉からの影響を受けています。だから、終止形と同じ形の連体形でテンを打つということも、それなりに自然な打ち方なのです。
 二つの可能性があるものの一方だけを原則とし、他方を反則とする論理は歯切れがよいので、中学生にはわかりやすいかもしれません。しかし、その歯切れのよさは、実は考え方の一面性に基づいている歯切れのよさなのです。

 第二は、本多氏の文章の持つ人間性についてです。本多氏は、悪い文章の見本として朝日新聞の声欄の投稿の一つを挙げ、次のように書いています。
 「一言でいうと、これはヘドの出そうな文章の一例といえましょう」「最初から最後までうんざりさせられるだけの文章だと思うに違いありません」「手垢のついた、いやみったらしい表現」。
 「中学生からの作文技術」の188ページに載っていますから、時間のある人は書店で立ち読みして確認されるといいと思います。当の批判された文章は、ごく普通の文章です。多少紋切り型の表現が多いと思いますが、文章で大事なのは伝えようとしている中身であって、伝え方の巧拙ではありません。書店で確認する時間がない人のために引用すると、こういう文章です。
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 只野小葉さん。当年五五歳になる家の前のおばさんである。このおばさん、ただのおばさんではない。ひとたびキャラバンシューズをはき、リュックを背負い、頭に登山帽をのせると、どうしてどうしてそんじょそこらの若者は足もとにも及ばない。このいでたちで日光周辺の山はことごとく踏破、尾瀬、白根、奥日光まで征服したというから驚く。
 そして、この只野さんには同好の士が三、四人いるが、いずれも五十歳をはるかに過ぎた古き若者ばかりなのである。マイカーが普及し、とみに足の弱くなった今の若者らにとって学ぶべきところ大である。子どもたちがもう少し手がかからなくなったら弟子入りをして、彼女のように年齢とは逆に若々しい日々を過ごしたいと思っている昨今である。
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 別にいいじゃん。(笑)そんなひどい言い方で批判するなよ、と私は思います。
 もし、身近な人に、「あいつの言っていることはわかるが、言い方がむかつくんだよな」などという人がいたら、私はその言われた人よりも言っている人の程度の方が低いと思います。
 教育でまず大事なことは、テクニックではなく人間性です。作文の技術を身につけるよりも、作文を書く姿勢の方が大事だと私は思います。私たちは、じょうずな文章を書くよりも前に、よい生き方をするべきなのです。せっかく一生懸命に書いている人の文章に、「ヘドが出そう」だとか「いやみったらしい」などという言葉で批評する感覚は、勉強以前に人間の生きる姿勢として問題なのです。想定されている読み手が中学生であれば、なおさらこのことが言えると思います。(つづく)


■■読書について(ミニー/さらだ先生)
 10月27日から始まった「読書週間」 を前に、読売新聞社が行った全国世論調査のデータと、分析が新聞に載っていました。目をひくのは、
「1ヶ月間読まず」  男性49% 女性54% 
の見出しでした。その理由は「時間がなかった」 49%でダントツ! 続いて「読みたい本がなかった」 20%、「読まなくても困らない」 18%。お年寄りの中には、「目の衰えなどで読書ができなくなった」 という理由もあるようでした。

 「今こそ本を読むときだよ!」 と、先生はあなたたちに思うのです。だって、時間もあるし、目もだいじょうぶだよね?! 「読みたい本がなかった」 「読まなくても困らない」 という理由には、先生はなんだか寂しい思いがしました。「まずは読んでみる!」 「たくさん読んでみる!」 という姿勢はとても大事なものではないかしら…。本離れが定着する中で、本を読んで考え方や人生観に影響を受けたかどうかという質問に対して、「ある」 と答えた人は63%! そう思えるものに出会うためにも、「まずは読んでみる」 「これも読んでみる」 という考え方は必要だと思うのです。そういった余裕があるのは、あなたたちの今だと思うのです。
                <<え3483み>>
 孔子は、書物を読むことの利益を、初めて説き示した東洋人であるといってよい。ところで、孔子は易を読んで、韋編三絶したということが、その伝記に見えている。韋編というのは、皮のひもという意味であって、当時の書物は、竹の札を一枚ずつ横に並べ、札と札とを皮のひもでくくりあわせてあったが、そのひもが三度も絶ち切れるほど、易の書物を、孔子はくり返しくり返し読んだというのである。
 われわれも、何かそれぞれに好きな書物を、とじ糸が三度も切れるほど愛読したいものである。どの書物がそれであるかは、人々によってちがうであろう。しかし、何かそうした愛読書を、一生のうちにはみつけたいものである。

 これは、「言葉の森」 の小学校5年生11月2週の長文の一説です。
生きていく中で、自分の愛読書を持てるってすばらしいことだよね。「葦編三絶」 の本を持ってみたいと思わない? そのためにもたくさん読んでみようよ! 
                               <<え1678み>>
 データの中には、「活字離れ歯止め策」 もグラフになっていました。朝の始業前や授業時間などを利用して読書をさせている公立小、中がたくさんあるようです。「ああ、家に帰って早く本の続きが読みたい!」 と思える本はいっぱいあります。まずは、「これ読んでみよ!」 と臆せず手にとってみましょう。テレビや、インターネットでは、やっぱり得ることができないものが、本の中にはいっぱいありそうです。
 先生は井上靖の自叙伝風小説、「しろばんば」 「夏草冬なみ」 「北の海」 が大好きでした。年を重ねてから読むとまたちがって楽しめます。10年以上も前ですが、井上靖が亡くなったことをテレビのニュースで聞き、ポロポロ涙が出たことを覚えています。


■■ちゃんこ料理(スピカ/かも先生)
 秋も深まってきましたね。早くも、クリスマスムードも盛り上がってきているようです。みなさん、風邪なんかひいていませんか?

 先日娘の小学校で、元関取の時津洋(ときつなだ)さんの講演会がありました。保護者の方の中に、お知り合いがおられ、紹介していただいたのです。私はPTAの委員として、この講演会を企画から、当日の司会まで担当したので、終わったときは本当にほっとし、肩の荷が下りた気持ちでした。

 時津洋さんって、わからない人も多いかと思いますが^^;、若貴兄弟(は、わかるかな?)と同時期に幕内で活躍され、引退後の今はちゃんこ屋さんをなさっています。若貴兄弟とは、当時から仲がよく、元若乃花の「おにいちゃん」が『ちゃんこダイニング若』をやろうというときにも、相談されたそうです。
 この辺りの話もおもしろかったけれど、これ以上はちょっとワイドショーネタかなぁ。あまり本題には関係ないので省略します。興味ある人は電話で聞いてね。(笑)

 本題です。そろそろ鍋物のおいしい季節ですが、「ちゃんこ」って、私たちがよく知っている「ちゃんこ鍋」に限らず、お相撲さんの料理は全て「ちゃんこ」と言うそうですね。そして、その名の由来は「ちゃん=父」と「こ(子)」だそうです。知っている人、いましたか? 父のことを「ちゃん」と呼ぶのも、小学生の人は聞いたことがないでしょうが、昔、そういう時代劇がはやっていたので、お父さんやお母さんは必ず知っているはずです。聞いてみてください^.^ つまり、「ちゃんこ」とは、相撲部屋では「親方と弟子達」を意味しているのですね。時津洋さんも、時津風親方とおかみさんのことを、本当の親と同じに大事に思っていて、本当の親と同じように「怖い存在」だとおっしゃっていました。(時津洋さんは、ふだんタバコを吸うそうですが、親方とおかみさんの前では、決して吸わず、未だに自分がタバコを吸うことをお二人はご存じないだろうとおっしゃっていました。何だか本当に、親に隠れて喫煙している高校生みたいで、会場には笑いが起こっていました。)
 ちなみに、お相撲さんの言葉で、「ごっつぁんです」は、「ごちそうさまです」だけではなく、「いただきます」にも使い、「ありがとうございます」「お願いします」など、様々な意味があるそうです。ほんわかと温かい、いろいろな意味での感謝の気持ちが伝わってくるような、いい言葉だと思いませんか?

 さて、「父と子の料理」ということであれば、私たちの家庭でも、それぞれの「ちゃんこ料理」ができるのではないでしょうか。お母さんと子どもの料理も、もちろんいいけれど(私もよく楽しんでいます)、ここはひとつお父さんに登場してもらえたらいいですね。何でもどんどん入れてしまうような豪快な「ちゃんこ鍋」を作るのもいいですし、理科の実験のように材料を量ったり、熱を加えられた材料が変化していく様子をじっくり観察する「ちゃんこカレー?」や「ちゃんこハンバーグ??」もいいでしょう。
 食べ物のおいしい秋、温かい料理で心も体も温まりたい冬、ご家庭で、「ちゃんこ料理」を楽しんでください。^.^
<<え122み>>


■■美人になるおまじない(はちみつ/おと先生)
 あっという間に11月。気がつくと木々の色が鮮やかです。その色合いはなんとも落ち着き、心がリラックスしますよね。ちょっとひんやりする風が心地よいですね。食欲の秋。ご飯がおいしい季節です。馬も肥える、人も肥える。うっかりしてるとお腹がぽっこりなんてことになってしまいます。

 見た目は気になるところ。あまり気にしない人も、美人でスマートな人もいますよね。美人って何でしょう? 目鼻立ちのはっきりした人でしょうか。テレビや雑誌を見ていると世の中には美男、美女がたくさんいるんだなぁ、と思います。やっぱり美人になりたいですよね。おしゃれしたり、ダイエットしたり、お化粧したり。最近はプチ整形も抵抗ない人も多いようです。そのうち美人だらけになるんじゃないでしょうか。

 でも本当の美人は表情が美人な人らしいです。それは笑顔、ほほえみ。美人でも冷たい感じの人には、ひきつけられないですよね。表情美人になるには、おまじないがあるそうです。

 美人の人は、自分に魔法をかけているそうです。無意識に。意識的にかけていると、無意識にそうなるようです。美しい心を持ち、ストレスを吹き飛ばすからステキな笑顔になれます。そのおまじないっていうのは、言葉です。それもほめ言葉です。自分にもほめ言葉。人にもほめ言葉。子供にもほめ言葉。素直なほめ言葉。それが美人を作るのだそうです。

 これは声に出せば出すほど美人になります。声に出すと、耳から自分にもほめ言葉が入ってきます。人をほめながら、自分にもごほうびをあげているようなものです。言葉のプレゼントを人に渡し、言葉のプレゼントを受け取る。交換し合うことでますます美人になります。プレゼントを選ぶとき、相手の喜びそうなもの、自分がもらうと嬉しいものにしますよね。言葉もそんな言葉を選んで使いたいですよね。

 「ありがとう」「きれいね。」「大好き。」「かわいい。」「似合っているね。」「だいじょうぶ。」「きっとよくなる。」「きっとできる。」「じょうずね。」などなど。
 おまじない、じぶんや周りの人にかけましょう。
<<え2005/168jみ>>


■■夢の未来を創造するには(ひまわり/すぎ先生)
 今回の学級新聞は、少し難しい言葉も出てきますので、高学年以上の方に向けた内容になっています。

 先日放送された「サイボーグ技術が人類を変える」と題されたNHKスペシャルの内容は、衝撃的でした。ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
<<え5346み>> 人間の体の一部を機械に置き換えるサイボーグという技術が、この五年で急速に進歩したそうです。事故で手を失った人が、機械の手を自分の考えたとおりに動かしたり、生まれつき難聴の人が、機械の耳を脳の中に埋め込んで音を聞くことができる、夢のような技術です。機械の手や足なら、疲れることもなく、ものすごい怪力を出せるのでしょうか。
 しかし、この技術はそれだけではありませんでした。私たちの記憶は、生まれてから経験してきたことがらの積み重ねであり、それがあってこそ自分だという意識があるわけですが、記憶の部分を機械に置き換えることも技術的には可能だというのです。とすると、まったく経験のないことを、手術によって自分の記憶として埋め込むこともできます。勉強しなくても教科書の内容を入れたチップを脳に埋め込んでもらえばいいし(これはいいですね。)、手術一つで突然昨日とは別の人間になってしまうということです。
<<え6687み>> また、番組ではねずみの脳に電気信号を与えて、ラジコンのように人間が思ったとおりに動かす実験をしていました。これがねずみではなく人間だったら、実におそろしいですね。記憶を変えられ、人に思いのままに動かされている人間。技術的にはそんな人間も作れるということになります。

 つまり、このサイボーグ技術は、夢の未来を創造することができる反面、悪夢の未来をもたらす可能性もあるということです。取材した立花隆さんは、次のようなことを述べていました。「たった五年という驚異的な短期間でここまで伸びた技術を使って、今後どのような未来を創っていくのか、今まさに人類はそれを真剣に考えなくてはならないところに来ている。」と。

 人類は、これまでに生み出した技術によって多くの失敗をしてきました。おそろしい核兵器を作ってしまったり、大切な地球環境を壊してしまったり。現在の技術の進歩のスピードは、昔よりずっと速くなっています。取り返しのつかないことにならないよう、すばやい判断と勇気ある軌道修正が求められます。これからの時代、優秀な技術者も、技術一辺倒ではなく、ものごとを柔軟に幅広く考えることのできる能力が、いっそう大切になってくるでしょう。立花隆さんは、このことを『盲目的行動者から責任行動者へ』という言葉を使って説明しています。ただ自分の専門分野の研究だけをしていればよいということでは、優秀な研究者であればあるほど、その技術が恐ろしい未来を生み出してしまう危険があるのです。新たな技術を生み出す際に、それがどんな未来を創るのかを思い描き、その責任を負うことが重要です。
<<え2004/225み>> みなさんは毎週、さまざまなテーマで考え、しかも自分の意見を意見文、小論文という形にまとめるトレーニングをしています。与えられたどんなテーマに対しても、自分で考える材料を集め、自分の力で判断し、一つの結論を出しまとめ上げるトレーニングですね。これは、もちろん国語力アップ、あるいは受験という目標があって続けているという方がほとんどだろうと思います。しかし、長い目で見れば、人類の明るい未来のために必要な、大切な能力のトレーニングをしているのではないでしょうか。……話がかなり大きくなりましたが。(笑)


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