言葉の森新聞2015年2月3週号 通算第1358号
文責 中根克明(森川林)

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■■資本主義を超えたこれからの社会における教育(つづき)
【前号までの記事】
 これまでの教育は、受験を目的とした教育でしたから、子供たちの間に差をつけるための教育を行っていました。その結果、できる子には無駄な知識を教えることによって創造性を枯渇させ、できない子には自信を失わせることによって創造性を枯渇させていました。
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 人間には、本来、できるできないという差を超えた、創造する力が誰にもあります。その創造性を育てる前提となるものが、すべての子供に必要な知識や技能を身につけさせる本質的な教育です。
 それは、かつて江戸時代に、読み書き算盤の教育と言われていたような寺子屋的な教育によって、地域と家庭の中で行われていくものです。(これが今、「寺子屋オンエア」として行おうとしているもので、その機構を「森林プロジェクト」として提供していきたいと思っています。)
 この本質教育の基盤の上に、創造教育が行われる必要があります。
 創造とは、創造する知識や技能という底辺の広さに、創造性という高さを掛けたものとして表されます。
 これからの社会では、特に膨大な知識をいかに速く広く身につけるかということが底辺の広さを決定します。その知識の底辺を広げる教育の一つが、暗唱教育です。そして、創造性の高さを引き上げる教育の一つが、作文教育です。(これが今、言葉の森が作文教育として行おうとしているものです。)
 作文教育は、また、子供たちの教育を地域全体の関心とする媒体ともなります。
 例えば、江戸時代の寺子屋教育における席書きのように、地域においてプレゼン作文発表会のようなイベントが定期的に行われれば、子供たちの関心も、地域の大人たちの関心も、子供たちの成長を点数による成績ではなく個性による創造として見る方向に向かいます。
 こうして、社会全体が、子供たちの成長を軸とした創造の価値を評価する方向に向かっていくのです。
 このような社会を作る最短距離にある国が日本です。そして、日本で作られた創造教育の仕組みは、そのまま世界に広がる可能性を持っています。更に、それは教育の仕組みに留まらず、それぞれの国で新しい社会の仕組みとして広がっていくのです。
 なぜなら、創造教育は、学校と先生によって作られるものではなく、家庭と地域社会によって作られるものだからです。その形態がたまたま学校的な場所や先生的な人を必要としたとしても、それは従来の学校や先生とは異なる新しい社会の学校や先生です。
 子供たちの成長を中心として同心円を描いて広がる社会が、これからの資本主義を超えた新しい創造社会なのです。


■■小学1年生の勉強の仕方が、その後の勉強のスタイルを作る

 小学1年生で勉強することなど、たかが知れています。どの教材でも誰が教えても、大差ないものです。ですから、市販の教材でも通信の教材でも自由に選んで、身近なお母さんが教える形で十分に勉強できるのです。
 しかし、大事なのは、このときの勉強の仕方です。勉強の中身そのものは誰でもできる(できなければならない)基本的なものなので、どういう教材をどう教えてもできるようになります。しかし、そのときの勉強の仕方は、実は千差万別なのです。

 そして、このときの勉強の仕方が、その後の子供の勉強の仕方の土台になります。だから、この時期は、何をやるかとか何を身につけるかということよりも、どうやるかということが大事になってくるのです。
 では、どうやればよいのでしょうか。
 まず第一に大事なことは、明るく楽しくやることです。少学校低学年は、苦しい勉強をする時期ではありません。苦しい勉強の方がやりがいが出てくるのは、もっとずっとあとになってからです。小学1年生のときは、できるだけ楽にできるように、少しでも子供が困っていることがあったら、どんどん手助けしてあげることです。
 これは、作文でも同じです。低学年の子に、無理に自分の力で書かせる必要はありまぜん。楽に書かせることが大事で、そのためにはいくらでも助け舟を出してあげることです。
 しかし第二に、自分のペースで自主的にやる勉強スタイルを作ることです。そのためには、何をいつどういう順序でやるかということを、一つの流れとして作り、子供が自分の意思でその流れに乗るようにすることです。
 よく、お母さんが、「次は、これ。それが終わったら、今度はこれ」と指示するような勉強の仕方をしている家庭が多いのですが、それでは、やらされる勉強になってしまいます。勉強の開始は、親が指示しないと始められないこともありますが、どういう順序でやっていくかということは、子供が自主的にやるような仕組みを作っておくことです。


■■小学1年生の勉強は、集中力をつけること、例外を作らないこと、読書と対話と経験を重視すること
 小学1年生の勉強で大事なことは、勉強の仕方です。何を勉強するかということよりも、どう勉強するかということが、その後の学力の伸びを左右していきます。
 この記事は、「小学1年生の勉強の仕方が、その後の勉強のスタイルを作る」の続きです。
 前の記事で書いたのは、第一に、楽しくやることでした。第二に、自主的にやることでした。
 第三に、子供の自主性を育てるためには、勉強の分量を多くしないこと、早く終わったからといって勉強の追加をしないことです。
 集中力がない子の多くは、勉強のしすぎという状態になっています。親から見てちょうどいいと思うぐらいの分量は、子供にとっては多すぎるものです。しかし、子供は反発するほどの基準が自分の中にないので、親に言われたことは一応そのまま素直に受け止めます。その結果が、集中力のなさとして出てくるのです。
 第四に、例外は作らないことです。勉強は、人間が成長するために欠かせないものですから、雨の日も、風の日も、土曜も、日曜も、旅行に出かけたときも、やると決めたことは、分量は少なくしたとしても毎日欠かさずにやっていくことです。
 この毎日欠かさずにやる習慣をつけるためにも、親が関与する面はできるだけ少なくしておくことが大事なのです。
 例えば、問題集の丸つけなども、親がやるのではなく、子供が自分でやるほうがいいのです。親がいなければできない勉強だと、親の都合でやらない日が出てくることもあるからです。
 第五に、子供の学力をつけるいちばんの勉強は、実は、読書と対話と経験です。
 漢字のドリルや計算のドリルは、いかにも勉強らしい感じがしますが、そういうドリルをやるのは、一応学校の勉強が普通にできるようになるためです。それ以上のものはありません。小学生の勉強は、どの教科も一応できているだけで十分なのです。人よりよくできるとか、毎回百点を取るとか、何学年も先取りするとかいうことにこだわる必要はありません。
 それよりも、読書と対話と経験で、自分なりに考える力と語彙の力と実際の体験を身につけておくことがその子の将来の本当の学力になるのです。
 言葉の森の作文も同じです。
 小学校低学年は、楽しく書くことが大事で、上手に書くことを目的にするものではありません。子供は素直なので、上手に書かせようと思えば、すぐに上手に書くようになります。しかし、そういう上手さには無理があります。低学年のころに上手に書きすぎた子は、勉強が長続きしないのです。
 大事なことは、作文を毎週書くという勉強をきっかけにして、音読や対話や経験の習慣を作ることです。しかも、それらの習慣は楽しくなければ本当の力にはなりません。音読や対話や経験を楽しい習慣にするためには、親がいつもよいところを見て褒めてあげることなのです。


■■12月の森リン大賞より(中1の部)

行列の利点
らみわ

 行列というものは、日本ではもう当たり前の現象になっている。スーパーや駅、さらにはトイレまで、いたる所に行列が存在する。そのため、私は行列をつくらず、バラバラと人が散らばっているところをあまり見たことがない。外国ではそれが当たり前だと聞いたときはおどろいた。テレビのニュースで、頭がキーンとならないふわふわのかき氷行列を見たことがある。ものすごく長くて、四時間以上並ぶものもあった。だが、それでも横入りをせずに並ぶのは日本人の長所だと思う。私は行列に賛成だ。
 その理由は第一に、ルールを守ることによって物事がスムーズに進むからだ。例えば、スポーツがそうだ。私は三年生のとき、体育の授業でキックベースをした。キックベースというのは、野球とサッカーを組み合わせたような遊びだ。しかし、一人の男の子がルールを破ってしまい、試合がなかなか進まなかった。例えば、もうアウトになっているのにそのままホームに走って点を入れたりして、試合を中断させていたのだ。結局、いつもその男の子がいるチームと相手チームは、試合がいつも授業内に終わらず、引き分けになってしまっていた。だが、それを何人かの男の子が注意し、しっかりとルールを守るようになった。私はそれを見て、流石に悪いと感じたのかな、と思った。それからは、どのチームも授業内に試合が終わるようになった。スポーツはプレイヤー全員がルールを守らなければ、スムーズに行うことができないのだ。電車やバスでは、降りる人が降りてから乗ることで、スムーズに乗り降りすることができている。私は中国に行ったことがある。日本と中国では、やはり文化が違うようで、中国人は降りる人も乗る人も同時に乗り降りしていて時間がかかっていた。関西の人も、そのような傾向があるらしい。だが、降りる人を優先にすれば時間を短縮できるだろう。
 その理由は第二に、ルールを守らないと混乱が起こるからだ。最近話題になった東京駅百周年記念のスイカを得るためになんと一万五千人ほどの人が並んだそうだ。私は電車などには興味がないのだが、ニュースで知った。どうやら、夜からは並んではいけない決まりだったのだが、ルールを破った人がいて、駅員が注意しなかったらしい。それが原因で、しっかりとルールを守った人がスイカを買うことができないという事態が発生してしまったらしい。中には九州から来た人もいたそうだ。それで、しっかりとルールを守ったのに、スイカを買えなかった人たちが怒って東京駅の模型を壊してしまったらしい。一部の人がルールを守らなかったせいで混乱が起こってしまったのだ。空港でもそうだ。日本の海外旅行者数は、千百五十万人を突破した。海外からの日本旅行者数は三百万人台だ。それだけの人が集まるのだから、行列をつくらなければ空港は大混乱してしまう。
 確かに、個々の事情を考慮しないことには問題があるが、「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」という名言があるように、行列本来の良さを認識するべきだ。東日本大震災のときも日本人は行列をつくり、外国人をおどろかせた。そのときも、行列の長所はきっと生かされただろう。私は、それを知り、日本人に生まれて本当によかったと思った。私は、これからも行列の良さを認識していきたい。


■■12月の森リン大賞より(中3の部)

言葉に愛を
ぎんぎつね

 日本では、欧米人の名前をカタカナでそのまま読むが、中国や朝鮮人の名前は漢字で書き、日本の読み方で読む。これは何も日本に限ったことではない。中国でも、日本と同じように欧米人の名前はそのまま読み(漢字の当て字になるが)、日本人や朝鮮人の名前は自国の読み方をするのだ。たしかに、自国の読み方だろうが相手の国の読み方だろうが、本質的には変わらないのかもしれない。しかし、人は大切な人には「私」の属する国、文化を認めてほしいと願うものだ。それは相手に対する尊重が伴うものだからだ。私は、言葉に感情を込められるような生き方をしていきたい。
 そのための方法としては第一に、相手の名前など、言葉に対して愛情を持って接することだ。生まれた子供に名前をつけることはその両親にとって一大イベントである。世の中にはいろいろな名前があるが、命名される名前はその年によって一定の傾向があるらしい。近年、人気な名前は音の響きが重視される傾向にあるそうだ。名前の意味だけでなく、読み方まで気を配ることに、私達がどれだけ「音」を気にしているのかがわかる。つまり、それは逆に言うと、私達が相手の言葉を大切にした時、初めて私達は相手とより良い関係を築くことができるということだろう。
 また、第二の方法としては、国同士の間でも、相手の言葉や文化を尊重しあうことだ。かつて、アジアからヨーロッパ東部に至るまでの広大な領土を有したモンゴル帝国はチンギス・ハンを起源として、実に20世紀まで中央ユーラシアの各地で君臨し続けたそうだ。途方もなく巨大な帝国を長く存続させられたのは一体なぜなのだろうか。それは、フビライ・ハーンの、支配した各地域の文化や言語を尊重した政策のおかげらしい。モンゴル帝国の一部に取り込まれても、その生活はほとんど変わらなかったことが人びとの抵抗を少なくし、それが帝国の維持につながったのだろう。
 たしかに、合理的に物事を進めるためには、言葉を記号のように扱うほうが便利な場合もある。もし、みんながみんな自分の名前の読み方にこだわっていたら、自分も相手も疲れて、関係も悪化してしまうだろう。しかし、「家とは、外から見るためのものではなく、中で住むためのものである」というように、名前などの言葉もまた、外から見るための符号ではなく、その中で生きている人間と密接に結びついているのである。それを否定するということは、その人を否定することにもつながり、決してプラスにはならないはずだ。私は、言葉というものを感じ取ることができる感性をもって、生きていきたいと思う。


■■12月の森リン大賞より(高校生の部)

意見を言おう!
ピット

 最近、日本ではあらゆる所で「国際化」の必要が唱えられている。世界で国際化を目指している国は日本だけである。しかし、欧米でさえも、開かれた民族とは言い切れない。むしろ日本人の方が、自分を閉ざされた国だと認識しているため、心理的に開かれている。日本が「国際化」をめざすのは、やむを得ず強いられているのであって、日本の特殊性を普遍化してくれる絶対善だからではない。私は、他人を基準とせず、自分の道を行くような生き方をしたい。
 そのための方法として第一に、自分の意見を持って、簡単に他人に流されないことだ。日本人は謙虚だ。しかし、それが裏目に出ることがある。空気を読んでしまうのだ。周りの空気を読んで自分の意見を持っていない、または、持っているが言い出せない人がたくさんいると思う。私は、絶対に他人に流される方だと思う。友達から何か頼まれると、ことわれないし、嫌なことでも、嫌だと言い出せないのだ。同じように考えている人は多いだろう。特に、女子。トイレに行くにも、どこに行くにも友達と一緒。友達が言ったことにすぐに同調してしまう。そんなことが多々ある。さすがに、私はトイレにまでついては行かないが、このように友達といつも一緒だと、自分の意見を言うことはないだろう。なぜなら、友達と同じ意見を言えばよいのだから。クラスの話し合いでも、ほとんど意見は出ない。意見を出したら、でしゃばっていると思われるのが怖いからだろうか。私はそんな日本は住みにくいのではないかと思う。しかし、そんな傾向から抜け出せない自分がいる。それがもどかしいのだ。
 第二の方法としては、歴史に残る人の生き方から学ぶことだ。伝記を読んでみると、歴史に残る人はんみな自分をしっかりもち、それを一生貫いている。かの有名なガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたために、法王の怒りにふれてしまい、もう二度と地動説を唱えないようにとサインをさせられた。しかし、ガリレオは自分の信念を曲げず、地動説を信じ続けた。そして、空想上の人物に、地動説を語らせた「天文対和」という本を出したのだ。しかし、それはやはり再び法王の怒りを買い、地動説は間違っているというように強いられてしまった。しかし、ガリレオはその法廷で、ギリシャ語で「それでも地球は動く」と繰り返していたそうだ。このように、どんな障害にぶつかっても、自分の信念を一生涯、貫いた人が歴史に名を残すようなすばらしい功績をあげているのだ。
 確かに、周囲と自分を比較することも大切だ、自分では見つけきれなかった、自分の意見の欠点が見えてくることがある。しかし、「自分が考えるとおりに生きなければならない。そうでないと、ついには自分が生きたとおりに考えるようになってしまう」という言葉があるように自分の意見を持って行動しなければならない。私は、自分の意見をしっかり持ち、それをきちんと発言し、行動に移せる人間になりたい。















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