言葉の森新聞2015年4月3週号 通算第1366号
文責 中根克明(森川林)

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■■継続のおすすめ「考える力を深める新小5・6年の勉強」(つづき)
 受験コースの学習の場合は、普段の勉強以上に事前の準備が必要になってきます。事前の準備とは、自分なりにその長文を読んで似た話を考え、両親に取材しておくことです。両親への取材がなぜ大切かというと、受験コースの課題のような難しいテーマを両親と対話することによって、どのような課題にも応用できる身近な実例やものの考え方が身につくからです。
 特に感想の豊かさは、大人との対話によって身につきます。感想が豊かでない子は、物事を、「おもしろかった」「つまらなかった」という単純なところでまとめてしまいがちです。大人との対話の多い子は、この感想をもっと工夫して書けるようになります。また、子供は、意見を述べる場合でも、一本調子でよいか悪いかを考えがちです。しかし、ある意見について親と対話をすると、世の中にはもっと微妙な例外があるのだということがわかってきます。言葉の森では、自分の意見と反対の立場にも理解を示して書くことを「反対意見への理解」と呼んでいますが、両親と対話をすると、この「反対意見への理解」がスムーズに書けるようになるのです。
 普段の作文の勉強でも字数の目標がありますが、受験コースの場合は、これの時間の制限も加わります。指定の字数までできるだけ早く書き上げる力をつけていくことが勉強の中心になります。早く書くためには、途中で考えたり、消しゴムで消して書き直したり、書いたところを読み返したりしないことが大切です。これは、習慣によって身につくものですから、普段の作文の勉強でも、書く前に全体の流れを考えておくという習慣をつけていくことが大事です。
 作文の実力というものは、なかなか変わりません。受験が間近になると、どの子も実力をどんどんつけていきますが、それでももとの力の差はなかなか埋まりません。もとの実力は、小学校中学年までの読書力によって支えられています。高学年になると、どうしても勉強や日々の行事に追われて読書の時間を確保できなくなりがちですが、読書は小学校生活の最優先課題と位置づけて取り組んでいきましょう。
 受験コースで勉強すると、その練習中に書いた自分らしい実例、自分らしい表現、自分らしい意見などのストックがたまってきます。作文試験に対応するための最良の参考書は、この自分が書いた文章です。さまざまなテーマで最低10本の作文を書いておくと、その中に、受験の作文に使えるような材料がそろいます。受験のときは、その材料を武器にして、テーマに合わせて臨機応変に書くという形になります。


■■継続のおすすめ「新中学生の勉強の仕方」(再掲)


どういう勉強をするか

・作文の字数は、600~1200字です。
・高校生になったときの小論文の基礎となる意見文の書き方を練習します。
・中学生の意見文と高校生の小論文の差は、主に長文の難しさの差です。中学の3年間で勉強する意見文の書き方がひととおりできれば、その書き方で大学入試の小論文に対応できます。
・パソコンで書ける生徒は、できるだけパソコンで書き、自動採点ソフト森リンの点数などを勉強の目標にしていきましょう。
・パソコンで書いている人で、高校入試に作文試験がある場合は、試験の3ヶ月前から手書きに戻しておきましょう。


新中学生の勉強の仕方
 中学生は、中高一貫校に進む子と、高校受験の必要な中学に進む子とがいます。
 中高一貫校に進んだ生徒は、そのまま学校に任せておけばいいと考えるわけにはいきません。中学受験までの勉強の反動で、1年生のときに遊んでしまうと、あとから取り戻すのが大変です。勉強は、学生の本分ですから、受験の前でも後でも、常に同じように生活の優先事項として取り組んでいく必要があります。

 高校受験の必要な中学に進んだ生徒は、中学1年生のころは、まだ受験が差し迫った課題になっていないためにのんびり過ごしてしまうことがあります。家庭で、勉強の方針を立てて計画的に取り組んでいく必要があります。
 中学生は、まだ自分で勉強の計画を立てることはできません。計画を立てて何かを成し遂げるという経験が少ないからです。特に、受験に向けての勉強計画のような大がかりなことは、本人の力だけではできません。しかし、勉強の計画の立て方は、学校では教えてくれません。塾も、スケジュールに沿った勉強を教えてはくれますが、本人が自分で計画を立てて勉強する方法は教えてくれません。中学生の勉強の計画は、家庭で試行錯誤しながら少しずつ作っていくものです。
 そのために、学年が変わる前の春休みの間に、勉強法の本をまとめて読んでおきます。新しい物事に取り組むときは、本の情報を参考にするのがいちばんです。できるだけ多くの勉強法の本を読み、その中で、自分がいちばん参考にできると思った本を1冊決めて、その1冊を勉強法の座右の書として勉強を進めていきます。自分のペースで勉強していると、いつの間にか自己流のやり方で無駄の多い勉強をしていることが多くなるので、ときどきその本を見て軌道修正するようにします。

 中学生の時期は、小学生のときよりも、高校生のときよりも時間の余裕がありません。部活があったり、定期テストがあったり、宿題があったりと、毎日時間に追われる生活をしています。しかし、勉強の基本はシンプルです。
 国語力については、読書に力を入れるとともに、難しい文章として高校入試の問題集の問題文を読む練習を続けていきます。時間が忙しくなると、読書は後回しになりがちですが、中学生のころに読書をしない生活にしてしまうと、その後の高校生、大学生でも読書のある生活になかなか戻りません。読書は、勉強と同じぐらいの重要度で毎日取り組んでいきましょう。中学生になると、国語の教科の中に、文法や古文が出てきます。これらは本当の国語力というよりも、単なる国語の知識です。文法や古文は、漢字の書き取りと同じように繰り返し覚えるという形で勉強していきましょう。
 英語の勉強の基本は、教科書を何度も音読して、丸ごと暗唱できるぐらいにしておくことです。教科書の1ページを20回ぐらい声を出して読むと、文章を見ないでも言えるようになります。そのようにして全ページを暗唱していきます。暗唱ができたら、もとの文章を見ないでも書けるところまで覚えていきましょう。これは、口で言うほど簡単なことではありません。気長な忍耐力の必要な勉強です。英語の成績は、真面目さに比例していると言われます。試験前に集中して勉強するのではなく、毎日の勉強の目標を決めてこつこつと取り組んでいくことが大切です。
 数学の勉強の基本は、自分にとっては少し難しいぐらいの問題が載っている問題集を繰り返し解くことです。できなかったところは、解法を見て自分で理解します。解法を見ても理解できないときは、両親や先生に聞きます。お父さんやお母さんは、突然中学生に数学の問題を聞かれても答えることはできませんが、解法を見て理解することなら子供よりもよくできるはずです。身近な両親に聞いて、それでもわからないときは先生に聞くというようにしていくと能率がよくなります。
 数学の勉強は、易しくできる問題を何題解いても力がつきません。問題集を繰り返し解くときも、一度できた問題は決して解かないようにします。そのかわり、できなかった問題は、日を置いて、2回でも、3回でも、4回でも、できるようになるまで繰り返し解きます。できない問題だけを繰り返し解くという勉強は、精神的にかなり苦しいものですが、こういう勉強の仕方でなければ力はつきません。
 このように、繰り返しできなかった問題を解くという勉強をするために、問題集はしっかりと1冊に製本してあるものを選びます。塾でもらうプリントや通信教材で次々と送られる小冊子の形のものは、ばらばらになりやすいので繰り返し解くという勉強には向きません。
 中学生の勉強で最も差がつく教科は数学です。だから、高校入試でも、数学の成績が合否を左右します。数学が苦手だと、高校に入ってからの進路の幅が狭まります。数学の成績は、頭のよさにも遺伝にも関係ありません。ただしい勉強の仕方を知っているかどうかです。しかし、覚えるる知識の量が多く、その知識が土台になって次の知識に結びつくという形になっているので、苦手な人はなかなか成績が上がらないように見えるのです。

 高校入試で、作文試験を行うところが増えています。点数の差をつけるために、課題はかなり難しいものが多いようです。しかし、言葉の森の通常の作文の勉強をしていれば、どのような課題でも書き方はすぐにわかります。
 合格圏内に入る作文を書くためには、思考力と語彙力をつけておくことが大切です。思考力と語彙力は、読書によって身につきますから、学校の勉強とは別に多読と難読を進めておく必要があります。 


■■1月の森リン大賞(旧中3の部)より

狙いを定めて
ぎんぎつね

 2014年の新学期から2015年になった現在までの私の学校生活はこれまでと一味違ったものとなっている。現在、私は中学3年生、そう、受験生なのである。とはいえ、私が自分が受験生であることを本当に実感したのは、つい最近のことである。今まで、授業中、ふざけていたクラスメートたちはおとなしくなり、私自身も更にまじめに受けるようになった。みんなが真面目になったのはひとえに「内申点」のためだ。内申点の重要性は中学1年生から先生方に言われ続けてきたが、中学1,2年生の頃では、その大切さがわかるはずもなく、今になってやっと、気づいたのである。幸い、私は非常に素晴らしいとまでは行かなかったものの、それなりの成績を取ることができている。皆よりも早く、内申点の重要性に気づいた「いい子」だったからだ。(笑)しかし、今振り返ってみると、ただ、内申点だけのために無理をしていた部分もあったと思う。内申点という架せがなければもう少し学校生活を楽しむことができたのかもしれない。それは、私のクラスメートたちにも言えることで、内申点がなかったら、もっといきいきとした彼らを見ることができたかもしれない。私は、人間は普段のんびりやっておき、いざというときに力を出せるように生きていく武器べきだと思う。
 そのための方法としては第一に、日頃は気持ちを養っていくようにすることだ。トラなどの猛獣は、いつも目をらんらんと光らせているイメージがあるが、実は、彼らは一日の大半をだらだらと過ごしている。トラやライオンなどの仲間であるネコを見れば、そのだらだらぶりがよく分かるだろう。しかし、ネコもそうであるように、狩りの時のトラやライオンは、これがあのやる気のなさそうにしていたやつなのかと目を疑うほど圧倒的なスピードとパワーで獲物を仕留めてしまう。迫力のある一連の動きに私達はただただ息を呑むことしかできない。彼らのこの恐るべき強さは普段の体力の温存で、ここぞという時に全て発揮されているのである。人間も普段肩の力を抜いて力を蓄えておけば、いざというとき、その力を余すことなく発揮できるだろう。
 また、第二の方法としては、社会の仕組みとして、すぐに評価しないことである。現代の社会は、早い結果ばかりを気にするため、知らず知らずのうちに私達はそれが正しいと思いこむようになってしまった。しかし、エジソンやアインシュタインなどを見てみればそれが間違いであることがわかる。彼らは学校の手本となる人とは程遠く、彼らの偉大な業績は、長期間の努力の結果というよりは一瞬にして激しく燃え上がった情熱の賜物といったほうが正しいだろう。以前、何かの本で、結果は必ずしも努力に比例しない、という文章を読んだことがある。やった分だけ結果が出ることよりも、ずっと大した結果が出ず、ある時、一気に大きな結果が出ることのほうが多いというのだ。天才、偉人と呼ばれる人は、後者のタイプのほうが多いように思われる。つまり、常に頑張るのではなく、ゆるやかに蓄積を重ねていくことが鍵となるのだろう。
 たしかに、普段からの努力も大切である。そもそも本番に実力を発揮できるのは日々の積み重ねがあってこそである。しかし、「飽きるということも、ひとつの能力の表れである」というように、ずっと全力疾走していたのではいざというときにそれ以上の力を出すことはできないだろう。私は、余裕を持って高校入試という本番に全力を出せるような生活を送って行きたい。


■■2月の森リン大賞(旧小5の部)より

環境と共に生きる
プリン

 島に住む動物と大陸に住む動物とでは体の大きさが違うそうだ。それはなぜだろうか。その一つの理由として、生きるための捕食が原因と考えられるそうだ。動物にとって島という環境は、捕食者の少ない場所である。これをきっかけに、体の大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなって環境とともに体のサイズを変化させていく。その動物に合った無理のない体の大きさの変化は、私達の生きる思想にも、人類に合ったサイズがあるのではないか。私はこの文章を読み、人間も動物も適した環境やそうでない環境に対して、それぞれ体や気持ちを適応していく能力があることがわかった。
 一年の中には暑い時期や寒い時期とさまざまである。現在では、扇風機・ストーブ・エアコンなどがあり、快適に過ごせる空間がある。だは、昔の人々はどのようにして暑さや寒さをしのいでいたのだろう。今の私達の暮らしは、さまざまな電化製品によって成り立っている。エアコンも各家に一台あるのが普通だ。つまりそういった環境が当たり前になっているということだ。だとしたら、もし現在の人々がタイムスリップして、昔の暮らしに戻ったら、きっとその生活環境には耐えられないだろう。このように時代の変化とともに、人間の考え方も変化発達している気がした。
 快適な環境を守り続けなければならないのは私達人間だけではない。もちろん動物もそうである。そこで私は以前このような本を読んだことを思い出した。それは、世界中の保護希少動物のことである。保護希少動物とは、ここ数年人間の捕獲や気候の変化で姿を消してきて絶滅の可能性のある動物のことだ。自然の中で暮らすその野生動物を人間が保護したり守っていったりしてその減少を止めることが活動の目的だ。例にシマウマをあげると、幼いころに親を亡くしたシマウマは、餌の取り方や敵から逃げる方法を知らないため、大自然の中命を落とす危険がある。そんなシマウマを救うため、人間が作った自然に近い環境で保護し育てていく。人工的に人間が餌を与えたり、敵を近づけないようにしてしまえば、そのシマウマは人間の手から離れたときに自分の力では生きていけなくなってしまうからだ。人間にとっても動物にとっても慣れた環境とは恐ろしいものである。
 動物や人間の考え方の変化は、周りの環境が関係している。「陸に上がったカッパ」のように、自分に適した環境から離れると耐えられなくなる(本来持っている力を発揮できなくなる)。これでは困ったものだ。
 無理のないサイズとは、無理のない環境のことを示しているのではないだろうか。


■■2月の森リン大賞(高校生社会人の部)より

親と躾
わこり

 人間が本質的な問題に気付き、分別を持てるようになるためには、様々な要素が必要であり、中でも親の愛情と家庭内での躾というものが大切である。かわいいからと言って、親がわがまま放題にして育ててしまうと、いずれは子ども自身が苦労することになってしまうのだ。私も小さいころから、人のものを奪ったり、わがままなことを言ったりしては、両親に叱られていた。その時は、悲しくて泣いていたし、自分を叱った親に対して反抗心を抱いたりしたが、成長した今では納得できている。もし、それらの行為が悪いことだと教わらなければ、幼稚園や小学校などで、私は孤立していただろうし、歪んだ性格になったことだろう。だが、それでは幸せな生活は送れない。子どものためを思うのならば、親が愛情を持って、きちんと躾をすべきなのである。
 躾が重要であることの第一の理由は、子どもは身近な大人から学びながら成長するからである。以前、大学のボランティアで地域の学童に参加した際、年下の子からおもちゃを強奪している児童がいた。それに対し、私たち学生が注意をすると、母親が「うちは叱らない育児をしているからいいの」と制止するのである。叱らない育児というのは、悪いことをしたら静かに諭す、というものであり、決して悪事を放任していいというものではない。叱らなくても、躾は必要なのだ。だが最近、このような勘違いしている親が多いように思う。両親、祖父母、先生などの身近な大人から、子どもはいろいろなことを学ぶ。それは善悪の基準だったり、食事の仕方だったりと様々だが、全て集団社会において必要なものである。それを正しく子供に伝えないということは、子どもの将来に、大きく悪影響を及ぼすことになるだろう。家庭での躾をしないということは、子どもの未来をつぶすことに他ならないのだ。
 第二の理由は、親からの愛情を受けられなかった子どもは、他人にも愛情を向けることができないからである。心理学の用語で、世代間連鎖という言葉がある。虐待を受けて育った人が、自分の子どもに対しても虐待をしてしまうことを指す言葉だ。厚生労働省の発表によると、2013年度の虐待件数は七万件以上にもなるそうだ。そして、この中の約三割が、世代間連鎖による虐待といわれている。虐待と躾は、似ているようにも見えるが、本質は全く別のものだ。親が自分の感情やストレスに負けず、子どもの気持ちを優先し、愛情のある躾をすることが大切なのだ。
確かに、いつでも甘えられる存在というのは、子どもにとって嬉しいものだろう。だが、甘やかすだけならば、それは愛情ではない。「明日の朝が仕事を完成させてくれるわけではない」という名言があるように、勝手に子どもが成長してくれるわけではないのである。時に優しく、時に厳しく躾をすることで子どもは成長する。それこそが本当の愛情なのだ。私はまだ親ではないが、教師として子どもと向き合う際、ただ優しいだけ、厳しいだけの先生になるのではなく、愛情を持って躾ができるようになりたいと思う。


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