言葉の森新聞2019年4月2週号 通算第1558号
文責 中根克明(森川林)

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■■春の読書作文キャンプ無事終了
 春の読書作文キャンプを、3月30,31日と一泊二日で行いました。
 31日午後1時半ごろ無事終了。迎えに来ていただいたお父さん、お母さん方、ありがとうございました。

 初日の読書時間には、みんなそれぞれ個性のある本を持ってきて、集中して読んでいました。
 言葉の森の講師2名の飛び入り参加があり、参加生徒と先生のリアルな初顔合わせもありました。(普段は、Zoomなどの準リアル対面なので)
 そして、一緒にバーベキュー広場から瀬上の池まで同行してくれました。

 曇り時々雨の予報でしたが、昼ごろから晴れだし春らしいキャンプになりました。
 バーベキューは、広場で用意してくれた食材で、お肉がいっぱい入っていました。食べたり、遊んだり、また食べたり、を繰り返しました。みんなすごい食欲でした。
 瀬上の池では、全員、網を持って勇んで出かけたものの、小さなオタマジャクシが数匹いるだけでした。

 初日の夕方のおふろの王様は、車が入れないほど混んでいたので、そのあとに予定していた作文は延期にし、そのかわり百円ショップに行ってしばらく時間をつぶし、夕方8時におふろの王様に再挑戦。
 30日の夕方から夜にかけては大雨になりましたが、その雨をついて露天風呂に行ったのは、かえって面白い経験になったと思います。

 時間がずれこんだため、夜は寝るのが11時近くになってしまいました。
 遅くまで騒いでいたのに、ほとんどの子が5時ごろからもう起き出しました。

 2日目の朝は、読書を省略して最初から作文。
 45分の予定をかなりオーバーしましたが、全員、たとえとダジャレを入れる課題で学年の百倍の字数まで書きました。

 2日目のどんぐりハウス前の広場でも、言葉の森の講師と名犬ゆめがみんなを出迎えてくれました。
 どんぐりハウスで遊んだあと、芝生の上で作文の発表会をする予定でしたが、みんな遊びに夢中でそんな雰囲気は全然なかったので、ただ遊ぶだけになりました。
 ハシゴを登ったり、ぐるぐる滑り台を降りたり、地下室に入ったり、みんなでフルに遊びました。
 好天で、芝生の上の昼ごはんはお花見気分でした。

 今回のキャンプは、できるだけ子供たちにやってもらうことにしたので、上級生の子が下級生の子たちの面倒をよく見てくれました。
 上級生のみなさん、ありがとうございました。

 今回は、できるだけ事前の準備や全体の企画はせずに、子供たちと一緒に自由に遊びと勉強のできるキャンプを目指しました。
 子供たちも、そういうやり方が好きだったようで、何人もの子が、「このあと、自由時間ある?」と聞いていました。

 その自由時間で、子供たちどうしがいろいろな遊びをしていたのです。
 そして、読書と遊びの時間には、みんな集中して取り組んでいたので、「よく遊びよく学べ」を実践したようなキャンプになりました。
 あと、「よく食べ」と(笑)。


■■言葉の森は、なぜまだプログラミング講座を始めないのか
 プログラミングの学習には、3つ条件が必要です。
 遊びとして取り組めるものであること、初心者でも完成の喜びを味わえること、しかし更に高度なプログラミングに進めることです。

 昔はその入口のひとつがhtmlでした。
 かつては、慶應義塾大学のSFCで、大学生がhtmlを作る授業をしているということが話題になった時代もありました。
 そこから、さまざまなプログラミングに進んだ人も多かったと思います。

 しかし、今のhtmlは、cssなどで複雑な組み合わせができるようになり、見た目を重視した専門化したものになってきています。
 子供がプログラミングを学ぶにはあまり適した教材とは言えません。

 子供にとっては、遊び的な要素がもっと必要で、その分野は男の子であれば、ドローン、ミニカー、ロボットなど動かすことができて、友達とゲームとして遊べるものです。

 実際にモノを動かして遊ぶことにより、何が学べるかというと、その遊びの中でプログラミングが便利なものだということを実感できるようになるのです。
 そうすれば、成長してからも、「こういうものがあればいいんだがなあ」というときに、「まだ誰も作っていないようだから、自分で作るか」という発想ができるようになるのです。
 これがプログラミングリテラシーです。

 現代の社会では、人に頼めばやってもらえるというサービスが豊富です。
 しかし、人間はひととおりのことは自分でやれるようにしておくことによって、自立した生き方ができるようになります。
 自分でやる時間がないから人に頼むというのはありますが、自分でやる能力がないから人に頼むというのでは、同じ頼むでも全く違います。

 プログラミングが自分でもできるという感覚をつかむために、子供時代に、遊びとしてのプログラミングを学ぶ意義があるのです。
 しかし、今のプログラミング学習の多くは、遊びだけで終わってしまう可能性があります。
 お絵かきや、レゴの組み立てと動きを、パソコンを使ってやる程度でそこから先に進まないような気がするのです。
 かと言って、本格的に言語を学ぶところに行こうとすると、大多数の子は面白さを味わう前に興味を失ってしまうように思います。
 それを克服する要となるのが、遊びとして熱中できるような面白さのある教材ですが、それがまだどこでも模索中なのです。

 たぶん、将来は、動力とセンサーを組み合わせたさまざまなロボットで子供たちが遊ぶ時代が来ると思います。
 自分のロボットをペットとして作り、子供によってはそのペットのロボットを犬にしたり、猫にしたり、恐竜にしたり、妖精にしたりとさまざまに工夫し友達と交流する形で遊ぶことができるようになります。
 そういう教材と組み合わせたプログラミング学習ができれば、プログラミング教育はもっと楽しくかつ高度にできるようになります。
 言葉の森が、まだプログラミング講座を開かないのは、今はそういう教材ができる少し手前の時期のように思うからです。

 しかし、プログラミングは、一つの技能です。
 その技能よりももうひと回り大きい学習の意義は、理数的素養というようなものです。
 理数的素養とは、理科実験や数学の演習を通して、世の中には自分の直感を超えた客観的な論理の世界があるということに対する確信です。
 その確信がもとになって、人間は新しい発明や発見に、つまり創造に取り組むことができるからです。

ふりかえると、江戸時代の人たちは、たぶん現代の日本人の平均よりも理数的素養があったと思います。
 だから、種子島に鉄砲がもたらされたとき、西洋の科学技術を多くの未開民族が魔術のように受け止めたのに対して、当時の日本人は、同じ人間が作ったものであれば、自分たちにも作れないわけがないという発想を持つことができたのです。

 江戸時代になぜ理数的素養があったかというと、それは四書五経の音読と算盤による基礎教育の上に、すべての人が農業や工業やあるいは商業の分野で自分の力で働くという社会の仕組みがあったからだと思います。

 途中、話がやや脱線しましたが、私がプログラミング教育でイメージしているのは、昔の子供たちが、メンコやベーゴマに熱中して遊び、自分なりにいろいろな工夫をして遊んだように、初めての子でも楽しめるが、工夫しようとすればいろいろなことができるという遊びと学習の両方の要素がある教育です。
 たぶん近い将来、そういうロボットプログラミングの教材が出てくると思います。
 今もすでにあるのかもしれませんが、今はまだ遊びの要素の方が中心で、しかも大がかりのものが多いような気がします。

 ですから、私は、今の段階でプログラミング学習に子供時代から取り組ませるよりも、言葉の森の発表学習クラスで、自由な理科実験や発表などを行う方が、ずっと理数的素養がつき、学問の面白さを感じるようになるだろうと思います。


■■勉強の追加をさせない――理想の子育て
 親は、子供が勉強している姿を見るとうれしいものです。
 反対に、子供がゲームに熱中している様子を見ると、何かひとこと言いたくなってきます。
 敏感な子供は、そういう親の気持ちを察して、親にとっていい子でいようと思うようになります。
 そうして、だらだら長時間勉強する子が生まれるのです。

 しかし本来、子供は勉強など好きなわけがありません。
 勉強が好きになるのは、もっとずっとあとになって高校生ぐらいになってからです。
 小中学校時代の勉強は、面白くも何ともないものです。
 だから学校に行って強制的にやらせるのです。

 親は、そういう子供の気持ちを察しなくてはなりません。
 そして、「勉強はもういいから、もっと好きなことをして遊びなさい」と言ってあげるのです。
 そういうふうに育てられた子は、勉強が必要だと感じたときに自分から進んで取り組むようになります。

 勉強を全くさせないと言うのではありません。
 家庭でルールを決めて、子供が無理なく自分の力でできる範囲のことは毎日やるようにします。
 それは、例えば、読書や音読や暗唱や算数の問題集です。

 毎日のルーティンワークとして決められた勉強であれば、子供はそれをなるべく早く終わらせて自分の好きなことをしたいと思うようになります。
 そして、自然に能率よく片付ける方法を身につけます。

 そのときに、お母さんが、「そんなに早く終わるなら、これも……」と勉強の追加をさせてはいけないのです。

 勉強の追加をされた子は、能率よくやると自分が損をするということを学びます。
 そして、それからは能率悪く長時間かけてだらだらと勉強をするようになるのです。

 小学4、5年生になれば、子供は、親が追加の勉強をさせようとしても、自分が嫌だと思えば嫌だと言います。
 しかし、小学1、2年生のころは、親の言うことはほぼ絶対です。
 だから、本当は嫌なことでも楽しそうにやります。
 だから、その小学1、2年生ころこそ、親は子供の本当の気持ちを察してあげる必要があるのです。

 それがマイナス面として出てくるのは、その子が中学生や高校生になってからです。
 小学校時代に身につけた能率悪く勉強する方法が、中学生や高校生になってからも続くのです。
 小学校時代はよくできたのに、高校生になってから伸び悩むというのは、そういう子です。

 学力の本当の差がつくのは、高校生になってからです。
 小学生時代の学力の差は、それがどんなに大きく見えようと、見た目だけのものです。
 だから、小学校時代は、勉強面でがんばる必要はないのです。
 そのかわり、その子が自分の好きなことをして個性を伸ばしていくことを第一に考える時期なのです。

 子供に勉強させすぎるお母さんやお父さんは、自分が子供時代にもっと勉強していれば、もっといい人生になっていたはずだと漠然と思っています。
 しかし、そんなことはありません。子供時代に何をしようが、自分の実力で今の人生があるのです。

 だとしたら、自分ができなかったことを子供にさせるのではなく、自分が子供時代にやってよかったと思うことを子供にさせることです。
 子供時代にやってよかったと思うことの大部分は、楽しかった遊びです。
 だから、子供はたくさん遊ばせてあげるといいのです。


■■中学1・2・3年生の保護者懇談会――中学生の勉強の仕方
 3月の保護者懇談会で、英語の勉強についていくつか質問がありましたが、英語については、
1.教科書を毎日1ページ20回よんで暗唱する、
2.文法的な知識がわかる参考書1冊を5回読む(最後まで読んだらまた最初に戻る形で)
3.英語の本を読書の一環として読む(初級者向けの薄い本が売られています)
 というやり方がよいと思います。

 なお、中学生になると、暗唱を覚えることと思ってしまうので、かえってスムーズにできなくなります。
 小学校低学年のうちに暗唱の仕方をマスターし、暗唱は覚えることではなく繰り返すことだということを感覚的につかんでおくと、英語の暗唱もすぐにできるようになります。

 学校の勉強のための英語と考えるよりも、将来役立つ語学力ということで考えていくことが大事です。
 当日にも話しましたが、大事なのは勉強法です。
 ただがんばればよいというのではなく、がんばる方法を考えながら勉強すると、その勉強法は大学入試のときにも応用できるようになります。

 中学生の勉強と言っても義務教育の範囲の話ですから、内容は誰でも理解できるものです。
 入試用の難問も、解法を見て丸ごと覚えてしまえばいいのです。小論文にしても、まともに練習すれば誰でも合格圏内に入る文章は書けるようになります。

 だから、親は、中学生だからと言って遠慮せずに、子供と勉強法を共有していくといいのです。
 ただし、中学生は親の干渉を嫌いますから、子供の自主性を尊重しながら、しかし肝心なところは親子で方針を一致させていくといいのです。


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