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言葉の森新聞2004年11月2週号 通算第862号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.問題を発見する能力
  ■2.テレビを消してみませんか(おうちの方へもお願い)(ほたる/ほた先生)
  ■3.「もったいない」を大切にしよう!(雨/ばば先生)
  ■4.季節を感じる風(まっち/ときち先生)
  ■5.ツッコメ!(けいこ/なら先生)
  ■6.小学生のお子さまをお持ちの保護者の方へ(ぺんぺん/わお先生)
 
言葉の森新聞 2004年11月2週号 通算第862号
文責 中根克明(森川林)

枝 1 / 節 2 / ID
1.問題を発見する能力
枝 4 / 節 3 / ID 7064
 今、学校では、国語、英語、数学、理科、社会などと教科がいくつかに分かれて勉強が進められていますが、将来、これらの勉強のうち、する必要のないものがかなり出てくると思います。現在の人類の知識の量の加速度的な増加を考えると、今のやり方で教育を行っていくことには限界があるからです。例えば、高校の理科の勉強の内容は19世紀までだと言われています。20世紀に発見された原理を盛り込んでいては教科書が厚くなりすぎるので、それらは大学に入ってからの専門の勉強に任されているのです。更に、理科系の大学では既に大学4年間の勉強では、必要な範囲をカバーできないので、大学院まで進むことが当然のようになりつつあります。社会の勉強も同様です。歴史の勉強は、時代が下るほど分量が多くなり、毎年覚える知識が増えてきます。このまま今と同じようなスタイルで教科書を作っていけば、すぐに広辞苑のような分厚い教科書になってしまうでしょう。
 打開策は、人生と社会に本当に必要なものだけを教育が担うということです。調べれば分かるような知識は、覚える必要はありません。興味に応じて深めていく分野は、専門課程の中で行っていくべきでしょう。漫画的な話ですが、マトリックスという映画では、頭に記憶チップを差し込むと、その記憶がすぐに生かせるようになり、主人公が突然ヘリコプターを操縦できるようになるという場面がありました。何十年先になるかわかりませんが、たぶん同じようなことは実現すると思います。
 現在のテストは、既に答えがある問題を提示して、その答えにいかに早くたどり着くか、又はその答えをいかに早く思い出すかということで人間の能力を評価しています。こういうクイズ番組的知識は、既に過去の能力になりつつあると思います。
 では、本当に必要な能力とは何かと言えば、それは問題を発見する能力です。では、人間はどのようにして問題を発見するかと言えば、それは意欲によってです。ナマケモノという動物に意欲がないとは言いませんが、体に苔が生えるまで気長に木にぶらさがっているナマケモノにとって、遠くの木に実っている果物や、その木に届くまでに越えなければならない障害物は、何の問題でもありません。障害物が問題として登場するのは、意欲のある者にとってだけです。
 人間の社会は、意欲ある少数者が問題を発見し、その問題を克服する中で発展してきました。現在の日本の社会は、過去のどの時代よりも豊かになっています。この豊かな社会の中に問題を発見する能力こそが、これから求められる能力です。知識の教育が必要だとすれば、それはその問題発見能力を支えるために必要なのだと思います。

枝 6 / 節 4 / ID 7078
作者コード:
2.テレビを消してみませんか(おうちの方へもお願い)(ほたる/ほた先生) 枝 4 / 節 5 / ID 7077


 年をとっていくと、ついつい昔話をしたくなるのは本当です。私も、子供の頃は、おじいちゃんおばあちゃんや両親の、「昔は……だった。」という話を、「またか。」という思いで聞いていたものでしたが、いつの間にか、自分がそういう話をする年になってしまいました。みなさんの作文にも、「昭和の時代のものらしい。」などという文章を見つけて、ちょっとドキッとしたりします。そう、中学生以下のみなさんにとって、昭和は生まれる前の時代なんですよね。今日は、ちょっとだけ昔話をします。つきあってください。
 私が小さかった頃、アメリカはやはり戦争をしていました。ベトナム戦争です。でも、子供だった私はあまりそのことは知りませんでした。アイドルだった天地真理のものまねをしたり、学校帰りに道草したりして、楽しく小学生時代を送っていました。
 ところで、私の家は父が学校の先生をしていた関係か、マンガが禁止されていました。(そのころは、その後に爆発的ヒットとなる任天堂のファミコンもまだありませんでした。ゲーム機はなかったのです。)マンガはたくさん出ていて、友達もみんな読んでいましたが、わが家では一切禁止。借りてくるのもだめ、親戚のお姉さんがくれたマンガ雑誌も、親に没収されてしまいました。したがって、私がマンガを読めるのは、友達の家に遊びに行った時だけ、という状況でした。
 私はマンガもすごーく読みたかったのですが、機会が限られていたため、とにかく本を読みました。学校の図書室の本、近所のお姉さんの文学全集(どんなにきらきら輝いて見えたことか!)、買ってもらった本、etc……。何しろテレビも、NHKの他には民放が2局しかない上、一家に一台しかないテレビをそうそう独占もできないのです。
 わが家の場合はすごく極端だったので、その後もマンガに対する憧れは消えず、結局今に至るまで読み続ける結果となってしまいましたが、それでも小学生のある時期、マンガが禁止されていたことは、豊富な読書体験という意味では有意義なことだったのだろうと、今では思います。現代の子供たちは、なかなか暇がありません。塾やおけいこ、その合間にテレビを見てゲームをして、それから友達とも遊んで、学校の宿題もして、……で、寝るまで「早くしなさい!」という親の声に追いかけられています。私の頃は、学校が終わったら日暮れまで外で友達と遊んでいたものですが、今、それができる子供は多くありません。
 テレビがいけないとか、ゲームがいけないとか、言うつもりはありません。ただ、先日、2歳までの子供にはテレビを制限した方がよい、という提言もなされました。秋の夜長、ちょっとだけテレビを消してみませんか。なんとなくテレビがつけっぱなしになっている家庭は多いです。ついていると、テレビはなかなか面白いし、興味を引くような話題を次々と差し出して、間を持たせてくれます。ちょっと消してみましょう。すると、思わぬ静寂があることに気づきます。みんながテレビの方を見ているのではなく、お互いの様子を見ることもできます。「今日の○○、どうだった?」と、一言かける余裕も出てきます。
 作文の時間にお電話していても、時折、電話の後ろからテレビの音が聞こえてくることがあります。どこか他の部屋で別のご家族が見ているのかもしれませんが、たった10分間の電話の時間です。どうか、聞こえる範囲でのテレビは消していただけるとありがたいな、と思います。できるだけ、お子さんが集中できる環境を作っていただきたいのです。よろしくお願いいたします。
枝 6 / 節 6 / ID 7065
作者コード:hota
3.「もったいない」を大切にしよう!(雨/ばば先生) 枝 4 / 節 7 / ID 7066
 題名を見て「え、それって作文と何の関係があるの!?」と首をかしげている人もいるかもしれませんね。電気代を節約しようとか、床に落ちたクッキーを「三秒ルール」(なんじゃそりゃ)で食べちゃおうとか、家族が残したおかずを片付けようとか、そんなことではありません。
 でも底の部分では同じかもしれません。何が「もったいない」のかといいますと、私たちの頭の中で考えたこと、心で感じたこと、見たこと、聞いたことについてなのです。こういったものは次から次へと、私たちが元気でいる限りずっと続きます。毎日、起きていても眠っていても、私たちの心、頭、体は働いています。
それはすばらしい営みだと思いませんか。なんにもないところから、心や頭や体を通して、いろんなことが生まれるのです。レパートリーは無限。しかも他の人が生み出したものとは絶対に似ることのない完全にオリジナルなものです。こうやって考えると、「人間は芸術だ!」と実感します。

 さて、それをそのままにしておくと私たちはきれいさっぱり忘れてしまいます。だから「もったいない」のです。
 「自分」というものは世界で、宇宙でたった一つの存在です。でも同時に人は刻々と変化します。一秒前の自分と一秒後の自分は違います。そう思ったのは、私が昔の日記を読み返したときでした。何冊ものノートにびっしりと書かれたこと。数年前の私が考え、感じ、見たり聞いたりしたことです。
 私は驚きました。「へえ、こんなこと考えていたんだ」「なんだかえらい感動してるなあ」「意外とするどいこと書いてるぞ」「なんて下らないことで悩んでいるんだろう、ぶぶぶ」なんて、今の私では想像できない「自分」がそこにありました。
 そしてこう思いました。「私はちゃんと生きてきたんだな」。自分に自信と勇気がわいてきました。そして自分が大切なものに思いました。
 日記をつけるということは大変なことです。かわいいノートを買ってきて、やる気まんまんで書き始めても三日坊主……(私は一日坊主です)。だから「書きたい」と思ったとき、「この気持ちを忘れたくない」と思ったときにノートを広げるといいでしょう。作文を書くときに日記からネタを探すこともできます。一石二鳥ですね。
 ちょっと難しい話になってしまいましたが、深いことは考えないで、だまされたつもりで試してみてください。
枝 6 / 節 8 / ID 7067
作者コード:baba
 
枝 61 / 節 9 / ID 7076
4.季節を感じる風(まっち/ときち先生) 枝 4 / 節 10 / ID 7070

 みなさん、こんにちは。キンモクセイのふんわりとしたやわらかな風を感じられる季節になりましたね。キンモクセイの香りはとっても甘〜いやさしい香りなんですが、みなさん、知っていますか。先週のお電話で、あるお友だちが先生にこんな話をしてくれました。
「先生、ぼくキンモクセイ知ってるよ。毎日匂いだってかいでるもん。でもね、実はぼく、その木がどこにあるのかずっとわからないんだ……。」
と。そうですよね。キンモクセイの木がどこにあるのか、これってけっこう手ごわいんですよね。先生は、そのお友だちのお話を聞いていて、思わず『うん、うん。』と大きくうなずいてしまいました。そこでみなさんに質問です。みなさんは、キンモクセイの木の場所を知っていますか。キンモクセイの木は、けっこう大きな木なんですが、なんだかかくれるのがとっても上手なんです。

 キンモクセイの香りは、秋風にピョイっと乗っかっては、遠くの山から近くの公園から、その甘い匂いを伴ってやってきます。ですから、匂いを身近に感じられても、それがどこから来た匂いなのか、その正体を見破るのはとってもがむずかしいことなんです。『あ、そういえばどこから匂ってくるのかわかんないや。』『わたしもぼくも知らないや。』そう思った子は、ぜひ、今度は注意して鼻をヒクヒクさせてみてください。もしかしたら、うーんと近くにひっそりとキンモクセイの木があるかもしれません……。
 ちなみに、先生は、キンモクセイの風が大好きです。その香りを感じたときが一番、『秋のおとずれ・秋の幸福感』を感じます。キンモクセイの匂いを浴びた日は、『はぁ〜幸せ。今日はきっと、すてきな一日になるわ。』と、まるで特別な一日がこれから始まるかのようなとてもすがすがしい気分にさえなるんです。妙に気持ちが入るといいましょうか、いつも吸っている空気までもがとてもきれいなものに感じられるんです……。先生って単純〜。

 さて、今日は、キンモクセイの風についてお話しましたが、秋の季節を感じられることって他にもたくさんありますよね。運動会があったよ、という人もいるでしょうし、そのほかにも、空が澄みきっていたり、さつまいもがおいしかったり、妙に図書館が恋しくなったり、塩サバがおいしくてごはんを何杯もおかわりしたり……。
 こんな風に『季節を感じること』ってとっても大切です。それに、ふだん何気なく過ごしていたのでは、なかなか見つけられません。また、季節を感じる力も使っていないとあっという間に小さくなってしまうものなんです。ですから、ぜひみなさんは、季節というものを意識しながら過ごしていってくださいね。きっとこれからたくさんの秋を見つけられるハズです。おいしい秋もぜひ見失わないようにしてくださいね!
枝 6 / 節 11 / ID 7071
作者コード:tokiti
5.ツッコメ!(けいこ/なら先生) 枝 4 / 節 12 / ID 7072
 ここ1〜2年ほど「お笑いブーム」とのこと。実は、5年ほど前に住んでいたマンションの隣室に、自称お笑い芸人が住んでいました。(正しくは、自称売れるのを待っているお笑い芸人)お隣のよしみで、何度かライブに足を運んだりしたのですが……なんと、そのときに同じステージに出ていた人たちが、今、何組もテレビに登場しています。「よくがんばって続けてきたなぁ。」と、何だか遠い親戚のおばちゃんだか、小学校の担任の先生だかになったような気分です。さて、今回の話は「継続は力なり」ではありません。(笑)
 お笑いの基本形はいくつかあるようですが、やはり「ボケとツッコミ」がベースのようです。コンビでやっても、一人でやっても、ですね。ツッコミがテンポよく切れ味がいいと、一気に笑いが弾けます。(もちろん、ボケがうまくないと、ツッコミも成り立たないのですが。)よく耳にするツッコミの決めぜりふが「なんでやねん」。作文を書くときも、ぜひ、「なんでやねん」を活用しましょう。いろいろなことに対して疑問を持とう! これはよく言われることですね。そのとおりです。できれば、「いろいろなこと」だけでなく「自分(の意見)」に、疑問を持ってほしいのです。
 一番わかりやすい課題キーワードとしては、「どうしてかというと」です。小学校1年生相当の秋以降、このキーワードを作文にもりこむ練習をします。小さいころは、ごくごく素直に、「どうしてかというと……だからです。」と、みんな作文に書いてくれます。
中学生になると「複数の理由」という課題になります。これがなかなか難しいようです。一つ目はすらっと出てきても、二つ目がキビシイ! 私たちは、経験を重ねることで、さまざまなことに対して疑問を持たず当たり前だと受け取り、一番合理的であろうと思われる答えを瞬時に選ぶようになります。そこには、「なぜ? それは……だから。」という思考は存在しません。それが悪いことばかりではないのですが、こと、作文においては、凡庸(ぼんよう)なものになってしまいがちです。普段から自分の考えに対して「なんでやねん」とツッコミを入れる癖をつけること、これが大切です。うまく自分にツッコミを入れながら考えたこと・書いた文章は、読む人を納得させます。なぜか? 書き手自身の納得がそこにあるからです。

 「好き/嫌い」「いい/悪い」「必要/不要」……自分の中で何かを判断したときに、「なんで?」と自分に問いかけてみる。そして、その答えに、もう一回、「なんで?」としつこく問いかけてみる。これをぜひ実践してみましょうね。
枝 6 / 節 13 / ID 7073
作者コード:nara
6.小学生のお子さまをお持ちの保護者の方へ(ぺんぺん/わお先生) 枝 4 / 節 14 / ID 7074
 以前、私は夫の仕事の都合で、2年間、群馬県水上町というところに住んでいました。関東では、観光地として有名で、温泉、登山、ハイキング、スキーなどが楽しめるところです。

 東京生まれの東京育ちである私にとって、雪国の冬は、想像以上につらいものでした。夜に雪が降り積もると、朝は雪かきから始まります。踏み固めてしまうと、凍ってしまって危険なため、雪が降る日は、毎日雪かきをするのです。寒冷地用の上着を着ていないと、寒くて立っていられない気温の中、黙々と作業をしました。また、特に寒い日は、畳の上を歩くのも冷たくて、水洗トイレに薄氷が張っていることもありました。雪が降る日は、外出するのもいやでした。3月になり、根雪になっていた庭の雪が消え始め、だんだんと気温が上がってくると、心の底からほっとしました。家の周りからすっかり雪が消えると、今度は、山の木々が一斉に芽吹き始めます。毎日、少しずつ大きくなっていく黄緑色の葉っぱを見ると、春になった喜びがふつふつと湧き上がってきました。

 高校生のころ、国語の教科書にあった春を題材にした短歌などを見ていて、「この人たちは、いくら感受性が豊かだとはいっても、なんてオーバーな表現をするんだろう。」と思っていました。しかし、実際に雪国に住んでみると、短歌に表現されていた春の喜びというのは、その作者の偽らざる気持ちであるということがよくわかりました。もし、雪国に住まなかったら、春の喜びという感情を一生理解できなかったかもしれません。

 何事も経験にまさるものはありません。作文が上手になったり、国語ができるようになるために、読書が大切であることは、誰にでもわかっていることだと思いますが、いろいろなことを経験して、感性を豊かにし、視野を広げるということは、案外忘れがちであると思います。文章を書くということが、自分の考えや感情を表現する行為である以上、その土台となる自分自身の考えや感情が薄っぺらなものだったら、いい文章は書けません。作文に限らず、他人の文章を読むときにも、同じことが言えます。自分自身の土台がしっかりしていないと、内容を深く理解することはできないのです。

 小学生の時期は、特に低学年くらいだと、自分の感情を文章で表現するのは難しいと思います。いろいろなことを経験させてあげたからといって、今すぐに結果はでてきません。しかし、まだ頭でっかちになっていない今の時期がとても大切なのです。今は、「子供の心に種をまいてあげる時期」だと思ってください。時間の許すかぎり、子供に良い経験をさせ、親子でいろいろな話をして、子供の心にたくさん種をまいてあげてください。
枝 6 / 節 15 / ID 7075
作者コード:wao
枝 9 / 節 16 / ID 7075
 
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