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言葉の森新聞2008年1月3週号 通算第1015号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.低学年の勉強
  ■2.作文小論文入試のコツ(その2)(昨年の記事の再掲です)
  ■3.ことばのいのち(みのり/まこ先生)
  ■4.誉めることの大切さ(いろは/いた先生)
  ■5.世界の昆虫食展(ゆっきー/かき先生)
  ■6.一村一品運動(はむはむ/はむら先生)
 
言葉の森新聞 2008年1月3週号 通算第1015号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.低学年の勉強 枝 4 / 節 3 / ID 11956
 中学や高校の入試で、作文の試験を行うところが増えています。これは、子供たちの学力で、読解力と表現力が低下していることと無縁ではありません。
 従来の勉強は、与えられたものを正確に記憶し、それを早く正しく再現することが中心でした。そのような勉強は、学力の土台としては必要ですが、それがそのまま学力の中身となるのではありません。本当の学力とは、初めて出合うような新しい問題に、自分の持っている知識を使って創造的に解決する方法を探す力のことです。
 近年の学力調査でしばしば指摘されることは、単純な知識の問題では正答率が高いのに、記述の問題になると途端に正答率が低下するということです。それも、間違った答えを書くのではなく、ただ空欄のまま提出する形が多いことです。つまり、与えられた問題に対して、応用力で答えることができないということなのです。
 この原因の一つに、低学年での勉強の仕方があると思います。低学年の勉強は、基礎学力をつけるという点で大切です。しかし、ここで勉強の目標を学力をつけることではなく、成績を上げることに置いてしまうと、どうしても知識に偏重した形になってしまいます。本当は、その年齢に応じた知識をもとに、それらの知識を組み合わせて考える勉強をしなければならないところを、知識の量を増やすことで手っ取り早く成績を上げる方向に進んでしまうのです。
枝 6 / 節 4 / ID 11957
作者コード:
2.作文小論文入試のコツ(その2)(昨年の記事の再掲です) 枝 4 / 節 5 / ID 11958
 作文のコツの第三は、難語を自然に書くことです。
 「でも、公園にゴミ箱があると、ゴミを減らすという気持ちがなくなる」という文と、「しかし、公園にゴミ箱が設置してあると、ゴミを減らすという自覚が生まれにくくなる」という文では、どちらが知的に感じるかというと、やはり「設置」や「自覚」などの難しい言葉を使ってある文の方です。中学生で、これらの言葉を読めない人はまずいません。しかし、文章の中に自然に使える人は少ないのです。なぜ読めるのに使えないかというと、こういう言葉の入った文章を読む量が不足しているからです。
 文章に使う言葉には、自分がふだん読んでいる文章の質が自ずから出てきます。中学生や高校生の文章で、話し言葉とあまり変わらない文章を書いている場合は、その人がふだんあまり本を読んでいないことを示しています。
 未消化の難語を使うのはかえってマイナスですが、少し背伸びをした文章語を使うのは、いい文章を書くためのコツです。

 第四は、光る表現を入れることです。
 文章の結びの5行は、文章全体の印象を左右する部分です。ここに光る表現があると、全体の印象がよくなります。書くことが好きな生徒は、自然にこういうことを知っているのでしょう。結びに一工夫してまとめてある文章をときどき見ますが、例外なく上手な文章です。
 光る表現となる要素は二つあります。一つは、「○○はAでなくBである」のような形で、逆説的な真理を述べていることです。もう一つは、結びの意見を書き出しのキーワードと結びつけてまとめていることです。いずれも、考える力がないとなかなか書けません。

 第五は、感動のある体験実例を書くことです。
 意見は、だれが書いてもほとんど差がありません。人間が考えることにそれほど大きな差はないからです。差があるのは、前に書いた表現の部分とこの実例の部分です。
 体験実例に、「友達がこんなことをした」と他人の体験を書いても、印象は強くなりません。また、自分の体験であっても、平凡な体験では印象に残る実例にはなりません。自分の体験であって、しかも、挑戦、感動、個性、共感などの感じられる実例がよい実例です。
 文章を読むのは人間ですから、体験実例の印象がよければ、それによって文章全体の印象が上がるのです。例えば、「私は、三年間ひとりで公園のゴミ拾いをしていたが」などという体験がさらりと書いてあれば、読み手はそれだけで文章以前に書いている人間に好印象を持つのです。
 しかし、もちろんウソを書いてはいけません。本当のことを書くというのは、文章を書く上での当然の前提だからです。たまに、文章指導と称して、うまく見せるためにウソでも何でも書けという人もいるようですが、こういう発想をすると、目に見える小さな利益のために、目に見えない大きな利益を失うことになります。
 いい文章を書くためには、日常生活で挑戦や感動や個性や共感のあるいい行動をすることです。
(つづく)

 次回の予定は、第六に知性を感じさせる社会実例を書くこと、第七に構成がわかるように書くこと、です。
枝 6 / 節 6 / ID 11959
作者コード:
3.ことばのいのち(みのり/まこ先生) 枝 4 / 節 7 / ID 11960
 人と人との関わりの中で、ことばはたいへん重要な役割を持っているということはわかります。でも、ことばに頼りすぎてしまったために、逆にことばがうわべだけの心無い道具になってしまっていることはないでしょうか。
 インターネットや携帯電話で、人は気軽にいつでもどこの人ともつながることができるようになりました。本当ならこれで、人との関わりも、より深まりあたたまっていってもよさそうです。ところが現実は、ますますさびしい方に向かっている気がします。
 人とのつながりは、便利で気軽な道具を使って交信し合うだけでは生まれてこないもののようです。生物科学者たちは、生命体に必要と考えられるすべての要素を試験管に入れて振ってみても、生命を誕生させることができないことにショックを受けたといいます。「生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している」(福岡伸一)
 ことばも生きてはじめて「こころがかよう」と言われる人とのつながりを育てていくものではないかと思っています。そして、ことばを生かすには、ことばだけにまかせるのではなく、からだまるごと使うことが何よりだと考えます。からだを動かすしぐさはもちろん、五感で受ける感覚すべてです。外界と直接触れているところは大事です。他人と一番近い部分だからです。
 ところで、日ごろからわたしは、あたりまえのたいせつな生活体験の機会を奪っているように思えるゲームに偏見を持っていました。子どもたちが集まって、顔を合わせることもなく、声をかけあうでもなく、それぞれの小さなゲーム機に向かって、それぞれが夢中になって遊ぶ姿に、何ともいえないおそれを感じてきました。
 ところが、話には聞いていたけれど、複数の人がゴルフやサッカーなどのスポーツをいっしょに体感しながらできるゲーム機があるそうですね。先日はじめてテレビで拝見しました。体を使わないことや人と関わらないというゲームの欠点をすっかりなくしてしまったかたちになっていてびっくりしました。時代や環境に合わせて、新しい人の生き方やつながり方が生まれてくるものなんだなあと感心したのでした。
 どうして「ことば」があるのか、どうしてわたしたち生き物は「表現」するのか。それは、ひとりでは生きられないからです。つながることでしか生きのびてこられなかったからです。世界は広い。いのちであふれている。そんな中でこそ、ことばは生きる。

 
枝 6 / 節 8 / ID 11961
作者コード:mako
4.誉めることの大切さ(いろは/いた先生) 枝 4 / 節 9 / ID 11962
 暑い夏が終わり、過ごしやすくなり始めた頃、子供の学校では「鉄棒」の季節がやってきます。毎年鉄棒カードなるものが配られ、日々練習をしてゴールを目指します。我が家には男女の双子がおり、娘の方は一つ一つクリアしていくことが大すき。今年も「あと一つ、連続空中逆上がりが5回できればクリアできるのになあ。」などと楽しそうに話しています。と、ふと横を見ると、いつもは話に入ってくる息子がだまっています。ん? おかしいな〜。ということでわけを聞いてみると逆上がりができないということが判明! ええ〜!! できないの? と驚いてしまいました。

 息子は運動ができない方ではなく、どちらかと言えばそつなくこなすタイプです。けれど小学2年生のときに腕を骨折して以来、恐怖心が先行し鉄棒から逃げていたようです。そうはいっても鉄棒は練習しないとできないもの。 一念発起、
「じゃあ、明日から練習しよう!」。
というわけで息子の鉄棒訓練が始まりました。

 息子の逆上がりを見ていると注意したいことが山ほどあります。「手が伸びすぎ」「頭が後ろを向きすぎ」「踏み込みがあまい」……。見るに見かねて「ちょっと!」と言おうと思った瞬間、娘の
「惜しい! あと少しだよ。」の一声。
喉元まで上がってきていた私の言葉は胸の中へ逆戻りです。仕方が無いのでただ笑って見ていました。するとさっきまでやる気をなくしていた息子の表情が明るくなり始めたのです。何度も何度も挑戦し、ずる〜っと地面に足が付く。それの繰り返しでしたが、それでも娘の「惜しい」の一言に後押しされ、頬を上気させながら練習を続けていました。

 結局息子の逆上がりが成功したのは練習開始から3日目です。その間支えたのは、私の指導ではなく娘の「惜しい」という一言だけでした。もし私があの時たくさんの指導をしていたら、息子のうれしい笑顔を見ることはできなかったかもしれません。逆上がり成功は、娘の前向きな言葉とそれに支えられた息子の気持ちのみだったのですから。

 子供指導の基本は「誉めること」なのですね、きっと。たくさんの指導よりも大切なことは、やる気を支えてくれる言葉のみなのかもしれません。「あごを引いて」。なんていう指導、どれほど適切な指導であっても無駄なもののようです。そんな指導より、「よくできているよ」。この一言の方がよほど子供の成長を助けるものなのでしょう。

 誉めることだけだと、どうしても不安になるのが親というもの。「指導」というのは教えられることだと思いがちですが、字から想像できるように、未来を指し示し導くのが指導です。未来に羽ばたく芽をまず伸ばすのが「指導」だと思うのです。まずは「やりたい」という気持ちを引き出すこと。やる気があれば、その後伸びていくのが自然の流れです。講師の役目はそれに尽きるといっても過言ではないのです。

 「誉める」ことが第一の基本だということを念頭において、これからも指導していきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
枝 6 / 節 10 / ID 11963
作者コード:ita
5.世界の昆虫食展(ゆっきー/かき先生) 枝 4 / 節 11 / ID 11966

 ところで、5・6年生の12月の課題に「おいしかったこと まずかったこと」というのがありました。なっとう、さしみ……と、どうしても口に合わなかった食べ物の話がたくさんありました。中には、「まずいと言うことは、作ってくれた人(お母さん)にもうしわけない」ということを書いたお友だちもいました。そんな作文を読んでいるとき、新聞のこんな記事を目にしました。「世界の昆虫食展」です。これは、食料として、人間が昆虫を食べることです。その昆虫食展が、兵庫県の伊丹市昆虫館で、来年1月28日まで開かれているそうです。昆虫が大好きなお友だちからは「なんてことだ!!」とおこられてしまいそうな展示会です。
 この展示会では、タイ、中国、ラオス、アフリカなど、世界8カ国の昆虫食を実際に展示し、日にちによっては試食もできるそうです。どんな昆虫が並んでいるかというと、バッタ、コオロギ、タガメ、ゲンゴロウ、ガの幼虫のイモムシ、アリ、セミなど、約30種類あるそうです。なんと、カブトムシまで食べられるそうです。この記事を読んで、まず、感じたのが、「まずそう!」です。もちろん、私は食べたことなどありません。インターネットで、他にどんな昆虫食があるのか調べてみたら、出てくる出てくる……。ミミズやタランチュラ(毒グモ)、ナメクジなど。どうやら、世界では、昆虫を食べることは、別に何でもないことのようです。料理法は、油で揚げて食べるが一番おいしいそうです。コオロギやイモムシのすがたのまま、お皿にのっていることを想像しただけで、背筋がゾゾゾーとしてきそうです。なんと、イモムシのふんで作ったお茶もあるそうです。一体、どんな味なんだ??? だれが一番初めにそんなものをお茶にしようと考えたんだ??? 飲んだ人は病気にならないのか??? となぞでいっぱいです。どうやら、高温の火でいためたり、揚げたりすることで、昆虫くささがなくなり、しかも、昆虫の体内にいる微生物が死んで、人間が食べても問題がなくなるそうです。むしろ、骨をふくめて、丸ごと食べられるということで、カルシウム、たんぱく質、ミネラルがたっぷりふくまれ、とても栄養があるそうです。しかし、どれだけ栄養があると聞いても、やはり、まずそう……。というよりも、まず、口の中に入れることができるかどうかが問題です。プリプリしたイモムシをパクリ、なんてことぜったいにできそうにありません。 みなさんは、どうですか? 食べてみたい昆虫はいますか? 「食わず嫌い」というテーマで作文を書いていたお友だちもいましたが、これこそ、食わず嫌いの代表的なメニューのような気がします。食べる前から嫌いです。でも、こんなことを言っていたら、作ってくれた人にもうしわけないかしら……。
 国によっては、お祝い事に昆虫を食べることもあるそうです。みなさんのおせち料理にカブトムシのからあげが入っていたら、どうしましょうね。ちなみに、日本でもイナゴのつくだにや、ハチの子ごはんといった、昆虫食があるんですよ。イナゴだったら、食べられそうな気がするのは、私だけかしら……。
枝 6 / 節 12 / ID 11967
作者コード:kaki
 
枝 61 / 節 13 / ID 11968
6.一村一品運動(はむはむ/はむら先生) 枝 4 / 節 14 / ID 11964
 知人に大分名物「やせうま」とざぼんの砂糖漬けを頂きました。ざぼんの包装の表に「一村一品運動」とありました。そういえば、大分県はこの一村一品運動が知られていますね。この運動が全国的にどのくらい広まっているのか、社会的なことは知らないのですが、群馬県に行ったときも、道の駅のおみやげ屋でこのような言葉に出会いました。
 一つの地域でひとつの名産品に絞って力を入れる、というのは、とてもよい発想だと思います。地域を挙げて集中的に生産、販売をすることで、よりよい物を供給できるでしょう。また、その産品によって、地域の特性を表して、人々に覚えてもらいやすいと思います。 でもその利点がそのまま欠点にもつながります。一品に特化することで、他のものを新しく開拓することが難しくなり、地域のイメージが悪い意味で固定化してしまうでしょう。
 ただ、旅をする者にとっては、「土地の品物」という響きはこの上なく魅力的です。日本中どこでも同じようなものが簡単に手に入る昨今だからこそ、この土地ならではのおみやげは嬉しいものです。牧ノ原のお茶、野田のしょうゆ、栃木のかんぴょう・・、こういう固定イメージは、そこに行ったら手にしたい、というような気持ちを起こさせてくれます。
 話が飛ぶようで似たようなところですが、大学の「一芸入試」というのも耳にします。自分のこれ一番の売りをアピールするものだそうです。この一芸が通らなかったらどうするのか、通ったとして入学後、このイメージで固定化されることはないのか、などと部外者として色々考えます。大学側は旅行者と同じように、「この人間を合格させたらこの点がよい」という魅力的な響きを感じるのでしょうか。それとも、「一芸にここまで秀でているなら、他の分野でもがんばれるだろう」と、「のびしろ」を評価してくれるのでしょうか。
 前者なら、名産品と同じような商品価値、後者なら、とても人間的な価値観を持たせてくれそうです。みなさんも、文章力があるのですから、言葉の森の小論文指導を受けて、論文と面接だけで一発合格を目指してください!
枝 6 / 節 15 / ID 11965
作者コード:hamura
枝 9 / 節 16 / ID 11965
 
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