世間にとらわれるな
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年月日
「世間」という言葉が定義しにくいのは、世間は常に個人との関係においてその個人の顔見知りの人間関係の中で生まれているものだからであり、人によって世間が広い人も狭い人もいるからである。日本人の一人一人にそれぞれ広い狭いの差はあれ、世間がある。世間は日常生活の次元においては快適な暮らしをするうえで必須なものに見えるが、その世間がもつ排他性や差別的閉鎖性は公共の場に出たときにはっきり現われる。僕は、このことについて、自分だけの世間というものにとらわれすぎるのはよくないと思う。そう、思う理由を二つ紹介する。
第一の理由として、自分の世間に入ってしまうと自分だけで考えだした意見を勝手に作ってしまい、個人の意見を持ちにくくなるからだ。動物は皆自分が調子がよかっと思った時や、都合が良かった時などに自分だけの世間、世界に入ってしまう。もしもそんな時に、誰かと一緒に考え事などをしているとどうだろう。大抵の場合、相手と反った意見が生まれてしまうだろう。僕自身、小学6年生の時に、課外のまとめテストで唯一一人だけ満点を取って、調子に少しばかり乗ってしまっていた時に、友達と意見が合わず喧嘩をしてしまったことがあるという経験があることによって言える。
第二の理由として、人間には違った世界観があるからだ。人間には当たり前のようにそれぞれの世界観がある。そのため、たった少しの行き違いにもトラベルが起こってしまう。世界の人口の約31%がキリスト教徒、約24%がイスラム教徒、約15%がヒンドゥー教徒、約7%が仏教徒であり、残りは無宗教やその他の宗教を信仰しているというデータもこのような理由の根拠を示す。
確かに、自分だけの意見を持つことは社会的に見ると大切だ。しかし、アリストテレスの「人間は社会的な動物である。」という名言があるように、自分だけの世間というものにとらわれすぎるのはよくないと思う。