遵法
   中3 あうては(auteha)  2025年3月1日

 現代では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会が普通の社会となり国家となっている。しかし、孔子の時代はそうではなかった。彼が生きていた時代は法が登場し始めたことであり、体制の根幹は共同体であった。仮に犯罪が起こっても、その罰を決めるのは共同体をリードする道徳にどのように背いているかという点においてである。一方で、法的社会は指導原理が法であり、指導者はその条件として法を守りかつ政策能力を身につけなくてはならない。私は法や規則を守って生きていきたい。

 第一の方法は、その法を破ったことによって引き起こされる結果を自分事として認識することだ。組織が上手く回らなくなる、他人に迷惑をかける、けがをする危険がある、などなぜその法は存在するのかを意識することが大切だと思う。私も、学校のプールの授業では無意識にルールを破ってしまったことが何度もある。水から上がると水分が風に当たって体温を奪っていき、よっぽど暑い日でもない限り、とてつもなく寒くなる。その状態でプールサイドを引き返さなければならないのだが、その際に歩くプールサイドには走ってはならないという規則がある。しかし、私は寒さで思考が停止し、早く水中に戻りたいのでつい走ってしまう。どうせ自分は転ばないだろうという変な自信があるからだ。つまり、自分事として考えていない。しかし、万が一転んだ場合、自分一人でダメージを受ける分にはまだよいが、周りを巻き込んでしまっては一大事なので気を付けたい。

 第二の方法は、法を守らせるのではなく自発的に守るような社会を形成することだ。人間は抑えつけられると反発する。禁止されると逆にやりたくなるのと同じような感じにだ。現に古代の秦は国民を恐怖政治で統制し、疲弊を顧みずに負担をかけた結果、国民の間で不満がたまり、反乱によって打倒された。抑えつけてしまうと逆効果になる場合が多いので、何故そのルールは存在するのかということを自ら考えて、自分からルールを守ることが肝要だ。学校で言えば先生、社会で言えば警察といった人たちの目がないところではルール違反が散見されるので、今の日本の社会でも、一人一人が法の重要性、存在意義を再認識することが大切だ。

 確かに、時には寛容にならなければ不信感を植え付け他人を信じられなくなってしまう可能性がある。課題フォルダーによると、アメリカでは、子供が起こした事故で親が弁償したものの、その子供を親が訴えるということがあったそうだ。こういうことがあると疑心暗鬼に陥ってしまい、人格形成に悪影響を与える可能性が生じる。しかし、「法をもって治を行い、刑をもって乱を正す」という言葉があるように、法を順守することは社会の秩序と安定を保つには不可欠である。私は一生刑務所とは縁のない生活を続けたい。