柔軟さ
高2 あかしか(akasika)
2025年3月1日
今日では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会がふつうの社会となり、国家となっている。しかし、今日、共同体が完全につぶされたわけではない。孔子が生きていた時代は法が登場し始めた頃であり、当時、法を優先するのは異端の発想であった。孔子が葉を訪れた時、自分の父親の犯罪を証言した正直な息子を批判した。法がしだいに社会的に認知されつつあった春秋時代に共同体原理を体現したのが孔子であった。私も孔子のように共同体的な生き方をしていきたい。
そのために第一に、法律よりも事柄をみることだ。日本の法律にある刑法では殺人罪の刑の重さは殺めてしまった人数で決まる。しかし、これだけでは判断できないことも多い。その殺人の背景は様々だと考えられるからだ。例えば、何もかも嫌になって無差別に人を殺すのか、何か強い思いがあって特定の人を殺めてしまうのかやアクセルとブレーキを踏み間違えるなど故意ではなく過失で殺人を犯してしまったのかなどが挙げられる。これら全て「人を殺している」ということは共通しているが、動機が全く違うので人数だけで機械的に量刑を決定するのは難しいだろう。
また、法律を施行する人の人間性も大事だ。伝記によると、大岡越前守は、子供を争う二人の母親が来た時にどちらも主張を譲らないので、「子供を引っ張って自分の元に引き寄せた方を母親として認めよう」と言った。実際に引っ張らせてみたら子供が痛くて泣き出した際に片方の母親が思わず手を離したのであった。引き寄せた方の母親はその子供をもらったと思ったのも束の間、大岡越前守は、「母親というのは自分の子供の涙を見るのは苦しいのでとっさに手を離した母親が真の母親だ」と言った。これは大岡越前守がルールに縛られずに柔軟に対応したから子供は真の母親のところへ行くことができたのだろう。もう一つの例として、裁判員制度がある。裁判員というのは裁判官とは違い、十八歳以上の国民から無作為に選ばれた人のことを指す。主に重大な刑事事件で一般の人はどのようにこの事件を受け取っているのかなどを知るために採用される。これも法だけに従って量刑を決めるのではなく、同情したりこれではやりすぎなどの一般の感覚を裁判官の判断に反映させるいい方法だろう。
確かに、法律に基づいた考え方の方が明確で良いという考え方もある。しかし、生活していく上で法やルールに縛られすぎると画一的な考え方しかできなくなってしまう。「できあがった規則をなんとか守ろうとすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規則を生かす道である」という名言があるように、起きてしまった出来事を様々な視点から捉えていかに柔軟に対応していくかが大切である。共同体的な生き方ができると罪を単なる罪として見るのではなく、そこに至った経緯や人間性を判断できるのではないか。私は共同体的な生き方をしていく上で広い視野を持つことを大事にしていきたい。