おたがいに尊重し合っていきたい‼
   中2 あうるか(auruka)  2025年3月2日

 二十年前、私は京都で下宿していた。ある夜月のいい夜だったが、私のところのおばあさんと一緒に、庭に出て月を見ていた。そのおばあさんは私に、「アメリカにも月がありますか?」と聞いたのだ。私のことを知らない日本人と話し出すと、国を聞かれるし、職業を聞かれるし、そして、三番目当たりの質問は、刺身でも平気ですかと聞くのだ。このような質問は実はどうでもいいと思う。仮に私が刺身を見てムカムカするとしても、日本を理解していないと早合点してもらいたくない。私は刺身が大好きだ。さらにもう一つ、日本語は外国人には絶対話せない、そして外国人が仮に話せても、絶対に読めないという迷信だ。私はいちばん最後に、そういうような悲観的な話はしたくない。私は、相互理解が年ごとに深まっているに違いないと思っている。

 確かに、自分の考えが勇逸のものと考えない視野の広さを持つことは大切だ。僕もこのことを実感した経験がある。それは中学一年生の時の陸上の強化練習会であった出来事だ。その頃はちょうど、冬季練習の時期でたくさん強化練習会の予定が入っていた。中でも一番大規模な練習会が個の練習会だった。ぼくは、普段通りに練習前のミーティングに向かった。そして、練習の説明が終わり、先生方の紹介に移った。見慣れた先生が紹介されていく中、僕はある一人の先生を見て、大きな衝撃を受けた。なんとその先生は片方の腕がなかったのだ。さらに衝撃だったのが、ちょうどその先生が僕たちのグループの担当の先生だったのだ。僕は、「走れるのだろうか?」「物を持つことはできるのだろうか?」などと勝手に想像してしまっていた。しかし、実際に教えてもらっていると、普通に一緒に走ってくれるし、物だって腕をうまく使い普通に持っていた。やっぱり、視野を広く持って考え、自分の固定概念に縛られすぎないことは大切のことだと思った。

 しかし、他人に煩わされず、自分の世界を掘り下げていくことも大切だ。僕も、学校でワークの宿題が出されたときに、ページ数がかなり多かったので、進めておこうと考えた。しかし、友達は、「休み中にやれば余裕で間に合うよ。」と言って、僕のことをドッジボールに誘った。僕はとても行きたかったが、行きたい気持ちをぐっとこらえて、断った。結局遊びに行った友達は、週末には勉強に集中できず、ワークの提出期限までに間に合わず、先生に怒られることとなった。友達の意見に流されず、自分の考えを信じ、ワークを進めておいてよかったなと思った。昔話なのかは分からないが、「走れメロス」のメロスは、友人のセリヌンティウスを助けるために、王に「遅れてこい。そうすれば生き延びられる。」とそそのかされたり、途中で疲れはてて諦めかけてしまったり、セリヌンティウスの弟子のフィロストラトスに「間に合いません。走るのをやめてください!」といわれても、友人の信頼に報いたいという一心で走り続けた。そのかいあって、間一髪、友人を救うことが出来た。やっぱり、他人に惑わされない強い思いも大切だ。

 確かに、自分の考えだけに縛られず視野を広く持つことも、他人に惑わされない強い思いも大切だ。しかし、「自国に対する賞賛が他国に対する軽蔑によって支えられているのであってはならない。」という名言もあるように、一番大切なのはお互いに尊重し合い、自分を高めていくことである。