サングラスと赤いゴム
高2 ばにら(tokunaga)
2025年4月2日
昔、サングラスをかけて街を歩くというのは勇気のいることであった。人目を気にし、顔を隠したいからこそ装着するものであって、それゆえに少しばかりのロマンもあった。だが現在、そんなイメージは廃れてしまった。今や多くの人が慣れ親しんだアイテムである。しかし、サングラスをつけて街を歩いているすべての人が、光から目を保護する目的だとは思えない。むしろ、目元を隠す「隠れ蓑」の役割はまだ残っていて、それが一般化したからこそ目立たなくなったとさえ感じる。特に最近、人間関係が淡白になりつつあると言われている。対人関係の煩わしさに疲れ、その疲弊が普遍的になりつつあるのではないか。こういった、「社交から逃れたい」という私たちの願いが、日常生活においてのサングラスの普及に現れているのではないだろうか。しかし、これは人間が社会的動物である、という根本的特性に一見反している。この特性を外れてさえ、何故私たちは対人関係から逃れたいのか?それには二つの原因が挙げられる。
第一に、社会の同調圧力が、日本の場合強すぎるからであろう。これは学校教育から始まり、社会人になり仕事をする中でも常に付き纏っている。私が驚愕した体験を例に挙げよう。中学二年生の頃に、フランスの夏休みを利用して日本へ帰省した。しかし、この時期日本の学校はまだ授業しているので、地元の公立中学に半月ほど体験入学をしてみた。もちろん、この半月の間に様々なカルチャーショックがあったが、一番鮮明に記憶に残っているのは初日のことである。学校に着いてなり、迎え入れてくれた教室の担任の先生と面談があった。和やかな雰囲気で、注意事項を一緒に確認しあう。ここに生活指導の先生も加わったのだが、そこで注意されたのが、私の髪ゴムの色であった。その日、何の意図もなしに私は赤いゴムで髪を結んでいたのだ。赤は目立つから、黒あるいは濃い茶色のゴムをしてきてくださいね、と言われた時は流石にびっくりした。日本の学校が服装に厳しいのは知っていたが、まさかゴムの色までとは・・・!と最早笑ってしまうくらいには衝撃であった。それと同時に、制服、体操服、髪型、髪色、全てが規定の範囲に収まるように努めるこの姿勢に、日本社会のあり方が見えた気がした。これは外見だけでなく、言動や思想についても同じことが言えるだろう。これは、多くの人間の協調を促進する有効的な手段である。だが、内部から見るとその景色は変わってくる。それは、ある者にとっては、明確なルールに従えば良い単純なゲームである一方で、別の者にとっては規範という檻なのだ。そして、後者の人間はこれらの規定を完全には飲み込めずに、やがてそんな自分を他者から評価されるのを苦しく思うようになるのだ。だからこそ、本来の自分の姿を保とうとする中で、人間関係を必要最低限にとどめようと防衛反応を起こすのではなかろうか。
第二の原因は、人間の集団に属すことが自分自身を脚色してよく見せる必要を強くからである。現代日本社会の場合、それが顕著に現れる。協調性を尊ぶ国民性だからこそ、皆一つの定まった理想像に向かって努力する義務が課せられるのだ。勉強やスポーツに励み、かつ集団の調和を乱さずに生きる。これは今の安全で快適な日本社会を作った一方、近年においてはその弊害も社会の歪みとして露呈してきた。ここで注意しておきたい点は、私たちは人間関係に興味を失ったのではなく、現実社会において自身を曝け出しながら人と対面することが苦痛になったことである。それを裏付けるように、現代社会の人間関係は狭まっているどころか、逆に極端に広範囲になっているのだ。この現象を引き起こしたのが、何を隠そうSNSの登場である。SNSは主に二つの種類に分類できる。現実世界の知り合いと「つながる」目的のFacebookやInstagram、バーチャル世界で匿名の関係を築くX(Twitter)や2ちゃんねるなどだ。さて、この特性上、両者とも「自分」という存在を両極端の方向へ演出させる。前者において、自身の生活を理想的なものに見せ、後者で決して世に出せない思考・思想をこれぞとばかりに吐き付けるのである。さて、この二種類のSNSにおいて、特に日本のコミュニティは極端に違いが現れる。インスタグラムを見ると、私が住んでいるフランスの方は現実に即した内容が多い印象に対して、日本のコミュニティは写真や外見美しさ、文章の内容などに特に気を使っているように感じる。対してTwitterを見てみると、まず日本の利用者が圧倒的に多いのに加えて、その投稿内容も混沌だ。フランス側の、AIが増産した低品質のフェイクニュースが可愛く見える程にカオスである。これは一見、ストレスを吐き出す先を確保する面では良いことに思えるかもしれない。しかし、この極端な理想の演出と、極端な個人的思考の放出は、どちらも現実の自分自身の評価を歪めてしまう。SNSの世界の自分はあくまで仮装であって、現実のそれとは別であることを受け入れられなくなってしまうのだ。これによって、自己肯定感の低下に次ぐ低下という負のスパイラルに陥ってしまう。それが、いつしか現実の人間に自分を認識される恐怖を生むのではなかろうか。
確かに、対人関係への億劫さを現代病だと評す意見もあるかもしれない。しかし、その根本的な原因は、今まで蓄積してきた社会のプレッシャーであることは間違いない。「出る杭は打たれる」という諺が、容易に納得されるほどに個々のを図ってきた日本社会の特性は、今に始まったことではない。しかし、そうは言っても欧米諸国のように不均一を重んじろとも主張できない。何故ならば、日本のこの戦略は、安全で快適な社会の形成という大きな成果を挙げた。重ねて、欧米諸国にも「皆違わなければならない」という別の息苦しさが指摘できる。では、どうすれば社会によるストレスを緩和できるのだろうか?これは難しい問題だが、理想論を一つ提示しよう。それは未来に期待を寄せられる社会を作ることである。現代日本においての一番のストレス源は、先が見えないのにも関わらず漠然と規範を守り、必死に働かなくてはならないことだと感じる。様々な問題が山積みになっている中で、これはクリアできないと知りながら、強制的にさせられているゲームのようだ。逆に、クリアすると大きな報酬が貰えるのであったなら、多少大変でも何とか攻略しようとするだろう。社会で生きるということは長距離走である。だからこそ、細々とした規則の調整や、SNSという仮想空間の安息所という砂糖はあまり効果がない。それよりも、水やプロテイン、つまりは正しい現状把握と未来への展望と行動が不可欠であると私は強く主張したい。