「選択力」
   中2 あおらえ(aorae)  2025年4月3日

  モノは日々進化を続けている。レコード盤は滅多に見ない。ガラパゴス携帯電話、通称「ガラケー」もほとんど見なくなった。言語の分野でも、すでに使われなくなった用法、言い方、言葉がある。最近できた言葉もある。中学生で古典を習う。「らうたげなり」などは今日でもう聞かない。「口は希代の怠け者、何かというとすぐに手抜きしたがる」。音便が生まれた理由はこれだろう。「ヤバい」という言葉を一日に何回も聞く。矢場から来た説、隠語から来た説などがあるが、もともとは危険だという意味であった。しかし、今ではそのほかにすごい、大変、興奮したなど様々な意味、対照的な意味まで網羅している。これによってほとんどの状況が表せるようになった。ただ、言語は保守的なものである。そう簡単には言語経済化の原理や言語多数決の原理を受け入れない。いや、受け入れられないのである。



 言語は保守的なものである。新しいものをなかなか受け付けない。それは、古くて正しいものには良さがあるからである。年賀状は年の初めの挨拶を表すものである。だからこそ、昔からずっと送られ続けてきた。メールでは表せない、自分が直接筆を握るからこそ伝わる温かみがある。私の家にも、毎年山形で泊っているペンションから年賀状が届く。短い近況報告が添えられていることが常だが、それが届くとまた行きたくなってしまう。友達からも年賀状が届く。塾からも年賀状が届いたことがあった。年賀状では、よく送り主が実際に書く。日本の文化として送る、ということもそうだが、その時の気持ちが筆跡から読み取ることができ、またメールでは味わえない非日常感やうれしさも感じられる。そこに、日本独特の、平安時代ごろから続いている年賀状の良さがあると思う。



 ただ、日々新しく、便利になっていっているものにも良さがある。コンピューターによって面倒な事柄が一挙に解決できるようになった。またインターネットや通信機によって世の中の情報を瞬時に手にすることができるようになり、判断や決断のスピードがあがったり、株式などでのチャンスを逃しにくくなったりした。地震の速報などの災害情報が瞬く間に自分に届くため次の行動は何にするかなどの判断をしやすくなり、他人とリアルタイムで会話ができるようになった。LIXIL株式会社は年賀状を送るのをやめ、メールに移行するとした。年賀状では数日前に送る必要があるため、そのあとに重要な情報が入ってきても訂正できない。さらに、年賀状は印刷する必要がある。その点、メールだと一斉に送ることができるため、労力は大分少なくて済む。



 古いものには、自分が冒険をしなくても良いが、新しいものは自分がいろいろ決めていかねばならない。だが、古いものではあまり他人との差が出ない。自分と他人との差を際立たせるためには、自分が行動をおこし、新しいものを使いこなす必要がある。このように、どちらにも良さがあるが、ヘラクレイトスは言っていた。「あなたの選択があなたの人格である」と。古いものにも、新しいものにも、どちらにも良さがあり、どちらも重要である。ただし、最も大事なものは自らが場合に応じてどちらを使うか選択することだと思う。相手によって、どちらがやりやすいかは異なってくる。様々な場合に応じて柔軟に方法を変えていく、方法を選択しいくことが最も重要である。