古くて新しい社会
   中2 すみひな(sumihina)  2025年4月3日

 「見れる」「来れる」「食べれる」――これらはいわゆる「ら抜き言葉」と呼ばれる表現だ。私自身、日常会話ではつい使ってしまうが、「ら抜き言葉」は助動詞「ラレル」の仕事の多さから生まれたそうだ。敬いや受け身・自発・可能の四つの意味を一語でこなす「ラレル」は、まさに働き者だ。だが、そのぶん使い分けが複雑で、人々が簡単に使える「レル」に頼るようになった、というわけである。しかし、言葉の本質は保守的なものであり、正しい日本語を使うべきだという考え方もある。しかし、私はこの意見に一理あると思いつつも、「正しいかどうか」だけではなく、「相手に伝わっているか」「使いやすいかどうか」なども言葉を選ぶうえで重要だと考える。



 私は「正しい日本語を守るべきだ」という意見にも共感する。確かに、公式な場や会社の発表などで「見れる」と言えば、「この人はちょっと雑だな」と思われることもあるかもしれない。このような場では私は正しい日本語を使った方が良いと思う。さらに、日本には「和」を重んじる文化がある。経験を積んだ年配の人の方が実力に関係なく優先されることが多いのだ。しかも、「来れる」は英語に直せば「I can~」と可能を表すが、「来られる」は「来てくださる」の尊敬か可能か区別がつきにくい。そんなふうに曖昧さがあるからこそ、正しい言葉づかいを学ぶことには意味があると思う。



 しかし、私は新しい考え方も採用していくべきだと思う。若い人などが「ら」を入れて話しているのを私はあまり見たことがない。そのままもう一つの正しい日本語としてみなすのもよいと思う。また、ら抜き言葉は知識人の文章や文学作品などにも表れている。例えば、川端康成『雪国』では、芸者の駒子が主人公のしまむらの誘いを断る場面で「遊びに来れないわ」というら抜き言葉を用いている。つまり、ら抜き言葉は単なる言い間違いではなく、日本語の変化の歴史であるということだ。物についてはスマートフォンが挙げられる。誰もが文章を書き、情報を発信できるようになった。効率とスピードが求められる今の社会では、「使いやすさ」が優先されるのも無理はない。もちろん、言葉の品位が落ちてしまうのは問題だが、変化の中にも意味や価値があることは確かである。



 確かに、正しい言葉を使って昔ながらの日本語を守ることも、新しいら抜き言葉を日本語として使うのもいいことだ。しかし、一番大切なのは、最終的に自分の中に「自分は正しい使い方ができる」という自負が生まれることだと思う。言葉や文化は生きている。自分たちがどのような言葉を選択して文化を作っていくかは、どのような社会を作っていくのか考えることと同じだ。「見られる」と「見れる」は、意味は似ていても、前者のほうがかしこまった印象を与えるし、後者のほうがくだけた感じで話しやすい。1文字違うだけで印象の与え方がこんなにも違うのだ。私はまだ正しい使い方ができるという自負はないが、社会の一員だという気持ちを意識していきたいと思う。