科学文明の発達は(感)
   中3 あきえよ(akieyo)  2025年4月2日

  科学文明の発達は、人間の日常から手間をどんどん省く。これらの進化の根本にあるのは、それまで人間が必ず経験しなければならなかった数々の手間を省こうとした人々の気持ちである。しかし、私は、人間はある程度人間らしく成長し本来あるべき姿にできるだけ近づくためには、「必要なる手間」が必ずあると思っている。私もこの文章の筆者と同様、最新の文明は私たちに害を与える可能性があることも十分知っている。それなのに、いつも楽な方ばかり選んでしまう。この気持ちを改めるためにも、私は日常生活の中で手間を惜しまないように生きていきたい。そのためにはどうしたらよいだろうか。二つの方法が考えられる。



 第一の方法としては、自分の考えをしっかり持って方針を決めることだ。そうすることで、自分が本当にやりたいこと、目指していることが何かを見定めることが出来るからだ。美術部に所属している私は、小さな頃から絵を描くのが好きだ。しかし、ネットなどで私より絵を描くのが上手い人を見ると、よく自信を無くしてしまう。私は、絵を描くたびにそのような気持ちになるのが嫌で、最近はあまり絵を描くことを控えていた。しかし最近私は、ただ嫌がっているだけでは絵の技法や描き方を新しく習得できないことに気付いた。そのときから、私はイラストレーターや画家の描き方を参考にしながら、自分なりに試行錯誤して物体の描き方の技法を真似して描いてみた。なかなか最初は練習の時間に対して実力がついてこなかったが、その中でも少しずつ技法が身についてきたように感じている。私はこの経験から、自分が何をしたいのかしっかりと目標を立て、それなりの手間をかけることは、決して惜しまない方が良いことを知った。



第二の方法としては、時間がかかっても自分の力で成し遂げた後の喜びを体感することだ。その喜びを感じるために、あえて手間がかかる方法を選んでいるというのも実際ある。私は小学生の頃から運動をすることが苦手だ。特に走ることが苦手な私は、五十メートル走の記録はいつも十二秒台、となかなかいい結果を残せずにいた。また、足が遅いせいで、鬼ごっこでいつも鬼になってしまっていた自分が嫌だった。その苦手意識を克服するために、次の五十メートル走の計測に向けて、積極的に走る時間を作ることを心掛けて生活した。例えば休み時間は、教室で絵を描くのではなく、鬼ごっこに参加するなどである。今振り返ってみると、子供なりに多くの努力をしたように感じる。そして、五十メートル走の計測の日。私は前回よりも三秒ほどタイムを縮めることが出来た。その時、私は言葉では表せないような達成感を感じた。この経験から私は、自分の力から得た喜びを体感することは、自分の苦手克服の原動力になると感じた



 確かに、手間を省くことで得られる時間は十分にあり、その時間を他の使い方ができるという点では、良いと思う。しかし「人間は求めている限り迷うものだ」という言葉があるように、私たちは本来、沢山のことを求め、それを達成するために多くの手間をかける。しかし最近は、科学文明の発達によってそれがきちんとなされていないように感じる。だからこそ私は、自分自身を成長させるために、「手間」をただの無駄なものだと感じない生き方をしたい。