時間に追われない
高1 あうては(auteha)
2025年4月3日
あらゆるものがカジュアルになっていき、様々な機器の圧倒的な便利さと引き換えに、「傾聴」したり、「注視」する面倒な手続きがどんどん失われていっている時代である。そのなかで「真面目」で「傾聴を迫る」クラシック音楽は姿かたちを変えている。しかし、クラシック音楽はコマーシャルとしてわずか十五秒に切り抜かれてしまっている。もちろん細部が全体に劣るわけではない。だが、曲全体という世界の中に位置づけられることで細部はそれで課で存在するより以上の意味を持つことができる。しかし、実際のコマーシャルの十五秒のクラシック音楽はそういう体験には程遠い。私たちは、時間に追われる生活から時には解放されるべきだと思う。
第一の方法は、隙間時間をうまく活用することだ。私たち、一例としての学生は、学校や塾、習い事、家事、勉強などで毎日が忙しく過ぎていく。しかし、よくよく振り返ってみると、それらの合間合間には数分から十数分程度の何もしない時間、いわゆる「隙間時間」が意外とたくさん埋まっている。そういった時間を発掘し、有効活用することで、後々塵も積もれば山となるで、それまでに削ってきた小さな隙間時間が大きな時間となって返ってくる。つまり、隙間時間一つ一つではたいした事はできなくても、それらを集めてしまえばいろいろなことができるようになるというわけだ。私も、宿題や課題は平日中の時間があるうちに終わらせてしまい、休日は勉強のことなど気にせずに思いっきり好きなことに時間を費やし、羽を伸ばしたい。
第二の方法は、必要でないことは切り捨てて、効率化を図ることだ。といっても時間に追われながら徹底的に急いでの効率化ではこの文章の本旨に反する。それよりも、そもそもやるべきことを減らす、または単純化するという作業の方が大切だ。現に、今でもオンライン会議の導入や、パソコン上での新システムなどにより、サラリーマンが実際に職場に行く必要性が減りつつある。つまり、業務やコミュニケーションをすべてインターネットを介して行うことが可能になり、通勤時間を浮かせられるようになったのだ。実際に、私の父は一週間に一、二回は在宅勤務である。また、今度の高校の運動会で私たち一年生は騎馬戦をやるのだが、その指導は先生ではなく全て高三によって行われている。そこで、ある意味嘆いてもしょうがない話だが、指導する高三の面々が時々変わるため、話や見せるビデオが重複することが結構起こって、余計な時間を食っている。このように、私たちの生活には意外と無駄な時間が潜んでいる。それらをつぶせば時間にゆとりができ、ひいては心にも余裕が生まれるだろう。
確かに、時間とやれることは概ね比例する。たくさんのことをやるには時間もそれだけかかってしまう。しかし、「時間は生まれるものではなく生み出すものである」という言葉があるように、うまく工夫しなければ空いている時間というものは増えるどころかどんどん減っていってしまう。時間を有効活用し、空いた時間を自分の好きなことにつぎ込んで、充実した生活を送っていきたい。