現在『子供』の問題が(感)
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年月日
現在『子供』の問題がたいへん捉えにくく、なにかと不気味なのは、一つには、社会のなかで子供についての或る一定の共通了解事項が成り立たなくなったからである。と同時に「『子供』の問題というのはふつうの問題のように対象化し分析的に捉えていったところであまり意味をなさないからである。いまやいろいろな領域で単なる専門家というものは役に立たないといわれ『専門馬鹿』などということばさえ出てくるようになった。永い間、知識とは積み重ねられたものであり、したがって、より多く知ることがより真理に近づくことだと考えられていた。ところが事実は必ずしもそうとばかりはならずに、ものを多く知ること、多くの知識をもつことによって、かえって私たちの一人一人は在るがままにものを見ることをできなくなるという事態が生ずるようになった。知識が創造的なかたちで働かされなくなるようになったといってもよければ、知識がかえって疎外的に働くようになったといってもいい。人間の触れ合いよりも、専門的な知識を過大評価する社会に問題があるのではないのかと思う。その原因は第一に、近年、さまざまな分野で専門が細分化されすぎている現象が見られる。そして、これは、知識や技術の進展によって、それぞれの分野が高度かつ複雑になり、従来の大まかな分類では対応できなくなっているためなのではないのかと思われる。例えば、医学の世界では、かつては「内科」「外科」などの大分類で診療が行われていました。しかし現在では、「循環器内科」「消化器内科」「神経内科」「内分泌内科」など、より専門的に分かれています。その結果、患者が体調不良を訴えても、どの科を受診すべきか判断が難しくなり、複数の医師を受診する必要が生じることがあります。また、生物学の分野でも同様です。以前は「植物学」や「動物学」といった大きな枠組みでしたが、現在では「分子生物学」「進化生物学」「細胞生物学」「神経生物学」などに分かれ、同じ生物を研究する場合でも、アプローチによって関わる専門が異なります。
またもう一つの原因は、権威や肩書きを重んじる日本の社会の伝統ではないのかと思われる。例えば、戦前から、日本社会には、「肩書き」や「権威」を重視する傾向が根強く存在している。これは、年功序列や上下関係を重んじる儒教的価値観が歴史的に根付いていることと関係していると思われる。現代においても、肩書きや学歴、所属組織などが人の信頼性や評価に大きな影響を与える場面が多く見られる。例えば、大学の序列がその典型で、東京大学や京都大学といった旧帝大出身者は、社会的に高い評価を受けやすく、就職や昇進において有利になる傾向がある。特に官僚機構や大企業では、学閥や出身大学の影響が未だに色濃く残っており、「東大出身」というだけで発言力が増すことも少なくない。
そして、やはり、人間は、知識によって救われるのではなく、同じ人間どうしの共感によって救われるのではないのかと思う。とりわけ「子供」という存在は、マニュアル通りに対応すれば済むような対象ではなく、一人ひとり異なる背景や感受性を持ち、個別に向き合っていかなければならない。そうした子供に対して、専門的知識や制度的枠組みだけで対処しようとすると、逆にその子供の声を聞き逃してしまうおそれがある。今日の社会における子供の問題が「不気味」であるのは、子供が何を考えているのか、どこにいるのか、誰とつながっているのかが、大人の側からは見えにくくなっているからでもある。SNSやデジタル機器を通じて、子供たちは大人の管理や想像を超えたつながり方をしている。従来のような「大人が子供を導く」という図式が成り立たなくなってきている現在、私たちは子供と同じ目線に立ち、共に学び、共に感じ、共に考えるという姿勢を持たなければならないのではないのかと思われる。「専門知」が限界を迎えつつある時代において、本当に必要とされているのは、断片化された知識をつなぎ合わせる視点であり、他者を理解しようとする想像力であり、そして何より、目の前の子供とどう関わるかを自らの経験と感受性を通して模索し続ける姿勢であると思われる。そして、知識だけでは決してたどり着けない領域、すなわち「関係性の知」を取り戻すことこそが、現代における子供の問題を解く鍵になるのではないかと、私は強く感じている。