古い、新しいに囚われない選択
中2 あかるら(akarura)
2025年4月3日
ラレルは受け身・尊敬・自発・可能の四つの意味を持つ動詞だ。そしてそのら抜き言葉は「可能」において頻繁に現れる。これは言語経済化の原理、つまりある言葉を少し整理して簡便にしようという性向の現れだ。しかしら抜き言を認めるかは二十世紀日本語の重大問題の1つとなっている。確かにら抜きは手抜きであるが、それには理由がある。私達は言語というものがその本質においてうんと保中的なものであることを心にとめておくべきだ。
確かに古く正しいものには良さがある。それはつまり誰にでも、そしてどんな状況下であっても通じるからだ。私達のごく身近なところにも数は減少したものの「古い」かつ「正しい」と言えるものが残っている。その一つがメディアだ。現代において多くの世代から人気を集めるSNSの歴史も長くなりつつあるが、それよりも更に長い歴史を持つ、つまり古いといえるテレビや新聞といったメディアは今でもSNSに比べ幅広い世代に情報と娯楽を与え続けている。それはなぜなのだろうか。この要因としてこれらのメディアには信憑性があることが挙げられる。SNSの環境は少しずつ整備されているものの、日々掲載される匿名の偽情報は度々物議を醸している。例えば、私は普段新聞やテレビなどのメディアから情報を収集することが多いが、その記事にもSNSで実際に投稿されたある嘘のニュースが載せられていた。それは元日を襲った能登半島の地震の影響で動物園のライオンが逃げ出したというものだった。このような偽造された情報が人を惑わせることが近年増えている。しかし古く正しいものは私達の信頼と安心感に支えられて今のように続いている。だからこそ、どんな激動の時代であってもそこには付加価値が生まれ、良さが認められるのだ。
しかし新しい、便利なものにも良さがある。古い考え方や物事に囚われず、新しいものに価値を見出し積極的に活用することで生まれる成功がある。 その例の一つとして有名な昔話の「桃太郎」が挙けられる。桃大郎は鬼退治をする前に仲間にきび団子を与えるが、その仲間として犬・猿・雉といった今まで関わったことのない「新しい」動物と共に鬼ヶ島へ行くのだ。そして全ての鬼を退治する。この鬼と戦って勝利し、後に村に平和が訪れたのは桃太郎一人だけではなく、新しく加わった仲間の長所のおかげでもある。もしも桃太郎が1人で鬼と対決していたら、いくら強くても全ての鬼を退治するという結末にはならなかっただろう。今では技術が大きく発展し私達の身の周りには新しくかつ日々の生活を便利にする物で溢れている。これを有効活用することで、私達の生活が少しずつ理想に近付いてゆくのだと思う。
古いもの、新しいものにはそれぞれ利点がある。しかし「適材適所」ということわざがある。最も大切なのはどんなものでもその目的に応じて使うことである。例えば2段落目に挙げたメディアの実例であれば、研究などで信頼できる情報源を利用したいのであれば本や新聞を、また流行しているものを探りたい場合にはネットを活用するなど臨機応変に対応していくべきだ。これによって私達は本当に、どんなものであってもより良い利用を考えることができるようになるだろう。