好奇心 清書
小6 よしたか(yositaka)
2025年4月4日
読書の楽しみは一人でできる楽しみだ。「ヴィジュアル」な情報と言葉による情報は、互いに他を補うので、一方が他方を駆逐するのではないし、一方が他方に代わるのでもない。読書そのものの楽しみとは、知的好奇心のほとんど無制限な満足である。
僕はNと言う本が一番心に印象付けられている。
この本は、極めて挑戦的な1作である。この本は人によって6×5×4×3×2=720通りの物語が生まれる。
今作【N】は全部で6つの話が書かれており、「名のない毒液と花」「落ちない魔球と鳥」「笑わない少女の死」「飛べない雄蜂の嘘」「消えない硝子の星」「眠らない刑事と犬」といった具合に全部で6つの話があるが第○章みたいな表記は無いので作者が進める通り、読者が読みたい順番で好きに読んで行っていい作品である。しかもどの順番で読むかによって見えてくる景色が人それぞれ違う。なんと言っても720通りの読み方が出来るので人によっては全く印象が変わる作品である。しかも各話の毎に上下が逆さになっている。これには1つの話と話の間を物理的にもなくすためでもあるらしい。
僕が読んだパターンだと今まで隠されていた伏線がラストできれいさっぱり回収されて心が熱くなった。コンクリートで殴られたような衝撃だった。僕は移動中、720通りもパターンがあるので何回も読めるNを繰り返し読んでいる。そのせいで、天気予報で雨と出ていたのを知らずにNがズタズタになってしまったのだが。
読書とは紀元前3000年代の初期にメソポタミアの粘土板文書やエジプトのパピルス巻子本として存在しており、中国でも紀元前1300年頃には文字と本があった。古代ギリシャやローマでは巻物が使われ、中世ヨーロッパでは修道院の写本によって知識が保存された。グーテンベルクが15世紀に活版印刷技術を発明すると、本の大量生産が可能になり、一般の人々にも知識が広がるようになった。日本では奈良時代に木簡や巻物が使われていたが、江戸時代に出版業が発展し、読書人口が拡大した。この時代、貸本屋が出版業者と読者をつなぐ役割を担っていたのである。
僕はテレビと比べて本の良さは読む人によって解釈が違う、考えの余地があるところだと思う。様々な解釈が試される場面でも、1つの映像にしてしまうと解釈の余地が無くなってしまうし、尺の都合上でカットされてしまうところもある。映像は「目に見えて迫力などが伝わる」と言うメリットはあるし、小説は「自分の創造もためされ人によって違う面白さがある」という点もある。だから僕はどちらも楽しんでいきたいと思う。人間にとって読書とは好奇心の源泉である。読書は人間の「知」を受け継がれるためにできたものであると考える。そして本は、昔から伝わる学びの元祖かもしれない。本のページをめくると、心もめくれてしまうかもしれない。新たな知識の第一歩に。
僕は本を読むことが好きだ。