時間の手品
   中3 あいたぬ(aitanu)  2025年4月4日

4月を象徴する桜ももうその花びらを落とし、明るい緑の葉をのぞかせる。新緑まではあと少しというところだろうか。道に広がる淡い桃色、いや桜色というのだろうか、なんせその独特な色を見つつ、考えることがある。もう僕は中学三年生になってしまった。誰かの大きな背中にあこがれてただがむしゃらに走っていたのはもう5年前になる。時が過ぎるのは春風よりもはやいなあと実感する。

私たち人間は必ず時間という原理の中に成立している。それは変えることのできないこの世の摂理だ。我々は決まった時間の中を生きるしかない。ただ、決められた時間をどのように使うかはそれぞれの自由だ。だから、世の中には歴史の教科書に載せられるような偉業を果たした人も、人生特に何もすることがなく終えてしまう人も存在する。これは誰もが知っていることだろう。

しかし、あるところにはこんなお話がある。これは友人が教えてくれたとある人の一日の物語である。「朝目を覚ますのは5時半、支度をして6時に出発、電車に乗って7時までには出勤しなければならない。そこから11時半まで仕事をして、昼休憩30分、そこから定時の5時まで仕事をするが、仕事が残ってしまい、6時半まで残業、7時半に帰宅して、夕飯の支度をする。9時から一時間ほど明日の準備、資料作成をして就寝。このスケジュールでは自由時間が全くないからしんどすぎる。」世の中ではこの事を「時間に縛られる」と表現するらしい。もともと人間は決められた時間軸の上でしか生活できないのだから、自分で決められるものは自由にしたいものだがそうもいかないらしい。だからといって僕はそんな人生は歩みたくない。人生は楽しくなければ意味がないからだ。いくら歴史上の偉人がこの生活をしていたからと言って、それが必ずしも「豊かな人生」であるとは限らない。

気が付いたことがある。江戸時代中期から後期にかけて時計があったが時間にルーズな時期があった。では人々が「時間に縛られる」ようになったのはいつごろからだろうか。僕が読んだ本には「時計が発明されてから」と書かれていたが、僕が最初に人々が時間を細かく気にするようになったのは、明治維新で日本に汽車が訪れた時ではないかと考える。江戸時代の時計の単位は「刻」しかなかった。しかし今でも我々の生活に直結する列車の時刻表が生まれたことにより人々は「時」「分」「秒」などの新しい単位を修得せざるを得なくなった。つまりここで時間が人々を縛るようになったのだ。僕が読んだ本ではこの更に後の時代のことまで書かれていたので、要約して書いておく。

時計が開発されてから時代が進むにつれテレビが出てくる。そのテレビに時間が密接にかかわってくると、人々はさらに時間を気にするようになる。そこから人々は分刻み、秒刻みのスケジュールを組むようになった。そのうち人間はいかに能率よく時間を使うかに関心を持つようになった。

さて、ぼくは基本、人々が置かれている仕方がない状況を打破するため、人の性には逆らうようにしている。だから僕は時間にとらわれない生き方を目指すことにした。とは言ってもただただ目指すといっただけでは、目標に達することはできない。だから僕は目標にたどり着くまでの地図を作ることにした。

その地図の核心となる部分として、具体的な二つの方法を見出すことができた。皆さんにも聞いていただきたいことなので少し紹介させていただく。

方法の一つとして僕は「趣味を確立させる」という方法を思いついた。

これは逆転の発想をしてみようと思ったときに見つけた方法だ。時間で縛られるのが嫌なら、時間で縛られる状況を作らなければいい。例えば「一番好きな食べ物は何ですか」と聞かれたときにすぐに「一番はこれ!」といえず、あれがいいかこれがいいかと迷っていたら、時間を縛らないとほとんど何もできないまま時間だけが過ぎてしまうことになる。時間で自分を縛らない為に何かしたいか、何をするべきかぐらいは考えておいた方がよいだろう。例を挙げよう。僕の学校にいた将棋が得意な子の話だ。彼の夢はプロの棋士になって藤井聡太八冠を超えることだという。そのためにここに来たが、もっと上を目指したいといい、この学校を去っていったのだ。これは自分が一番やりたいこととそのために必要な時間を考えて行動に出たのだ。

もう一つの方法として「経済力を身に着ける」を思いついた。

時間以外にも人間を縛るものはたくさんある。一番代表的なのが金である。近頃JAがお米の価格を全く下げず、それどころか上げている。だからと言って自力でお米を育てても、土地代、水道代、肥料代、害虫対策などで逆に疲弊してしまう。そのせいで生きるために必要な食物が手に入りにくくなった。これはある意味生活を金によって支配されているのだから、縛られているといっていいだろう。時間に縛られなくするには、自由に使える時間を増やすことが一番の近道だ。金を稼ぐために仕事に時間を取られていては、時間を有意義に使えているとは言えない生活になるだろう。少ない時間で多額の収入を得る方法を見つけて、もしくは自分のやりたいことを仕事にして、それに取り組めば、人生はもっと豊かになるはずだ。私の知り合いは自分の学歴を活かして家庭教師になり時給5000円以上を獲得し、時間にゆとりを待たせつつ金を稼いどようだ

確かに時間をきちっと守る生活は社会の秩序が保たれてはたから見れば「いい社会」と言われるようなものにはなるだろう。少しここで話をかえよう。この事例は「蝶と標本」とよく似ている。翅を左右対称になるようにきちっとそろえ、すべて同じ規則で様々なものができる。これは美しいともいえるだろう。しかし、それは自然の状態があってこその美しさであろう。それに標本は経年劣化する。しかし自然状態なら生きていれば輝き続ける。標本より生きている姿の方が美しいように、生き方ものびのびと、生き生きとしていた方がよいのではないか。

やはり時間の流れは速い。もうそろそろこれを書いて一時間半を超える。驚くべきことだ。よく考えると不思議なことしかない。そもそも時間とは何なのか、いつから時間が存在したのか。存在しない図形について考えているようで面白いが、答えのない哲学について考えると小一時間消費してしまう。今考えるのはやめておこうと思った。そういう考え方のぼくは時間にまだ縛られているのかもしれない。先程まで青空を待っていた桜の花びらはその桜色を放ち、やがて夜の闇に消えていった。