新しさと古さの使い分けとは
中2 のんのん(auhoha)
2025年4月3日
ラレルとい言葉は、四つの仕事を同時に受け持つ、実によく働く勤勉な助動詞である。これを助動詞とは認めず、接尾語とする説(時枝文法)もあるが、助動詞ラレルの四つの仕事はこうである。「鞄を盗られた」のように他からの動作や働きを受けることを表わした受け身、「校長先生が来られた」というふうな動作をする人にたいする敬意を表した尊敬、「おもしろく感じられる」という仕様と思わなるでもそうなることつまり自発、最後に「鳥が見られます」といったできることを表す可能がある。ら抜き言葉は4番目の「可能」に対してよく使われ、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさいという理由で文章を少し整理し簡便にしようとしているのだ。国語学者の神田寿美子さんは川端康成の雪国にも「遊びにこれないわ」という例があり、全国的にもラレルとい言葉をレルに変換していう人が相当多い。しかし、ら抜き言葉は手抜きである。日本語に生きているものとして何かを抜いた言葉を認めてしまってもいいのか。伝統の昔を取るか、はたまた便利な今をとるかの開幕の火蓋はもうとっくに上がっているのだ。
古いものにはそのもの特有の年月の重みも味も出てくる。保育所の時のアルバムを開くとまだ小さかった私がこれほどまでに成長したのかと我ながら感心することがある。あの頃と比べ、背も伸び知った知識も莫大に増えた。嬉しいことも楽しいことも悲しいことも腹が立ったことも数えきれぬほどあるが、それも年々色褪せていき、ある日ある時ぽっと見つけたものにより発色したりする。物には時間がよく伝わるのだ。たくさん使えば汚れ、あまり使わなかったら埃が被る。新品の時とは毎日違う姿で私前に姿を表してくれるということだ。博物館にある擦り切れた紙も、兵士が命を共に戦った武器も、小さい頃買ってもらったお人形も全てその時を記録し、私たちのいう古き良きを作っていくのだ。
一方、新しいものにはまだ見たことのない発見がある。私達は日々更新の毎日であり、新商品が開発されたり新しい作品が完成したりする。その中でも最近の絵画は少し前の時代から見て結構な更新を遂げていると思う。1世代前の絵画といえば、風景や人の日常の断片や奇跡時な風景などを描いていたが、最近は点や線色のメリハリなどをカクカさせた絵が多い。最近のものはひと目見ただけでその絵の真理は分かりにくい。じっくり考えて自分なりの答えと題名を照らし合わせてその人の世界を広げていく。わざとそういうふうな絵になったのは、トレンドの更新によるものだろう。毎年毎年、ヒット曲が生まれ話題になるものが沢山出てくる。更新という名のビッグウェーブが私達をまだ、見ぬ島へ連れて行ってくれるのだ。
ということは最も大切なのは古さが良いのか、新しさが良いかを決めることではなく「成功とは自分の個性を最大限に発揮することです。」というオグ・マンディーノさんの名言もある通り適材適所、つまりその時々によって使い分けそれぞれの良さを理解し、それを使い分けることである。