教育の間違い
高3 さとり(wamaro)
2025年4月4日
さて十九世紀の進行のうちに、自然科学がものすごい勢いで発達し、社会のあらゆるものをこれが動かすこととなるにつれて、科学精神は歴史をもとらえずにはおかなかったのであります。そしてそうした科学的歴史は個人というものの価値を社会の中に埋没させる傾向を生じました。もちろん、愛国心に作用されたり、伝統文化を偏愛したりして、その史観が何ほどか曇るといったことも起こりえましょう。現在は高学歴であったとしても仕事で使えるかは別と言われている。知識と生活力は別であって片方が出来ればいいというわけではない。もし頭脳や知識だけで生きていけると思っているのなら問題だ。
今後の対策としては、ネットが浸透したことで表に浮き彫りになってきた親のエゴでもある教育的勉強を無くすことだ。ネットサーフィンをしていると度々目にとまる勉強を子供に強制的に進め、友達と遊ぶ事も禁止、ゲームは野蛮で禁止させられていた。そして社会に出てから上手くなじめずにネットに浸っている。そんな人たちが想像の数倍いる、のにも関わらず数が増えている一方だ。おそらくネットが普及したことにより学歴コンプレックスをすぐそこで感じるようになったためではないだろうか。よく聞くのは親がいけなかった大学へ親自身の未練を果たすために勉強をさせ続けたというものがある。そこでいろいろなパターンで、例えばスポーツ選手を目指させるパージョンなどの親が子供に自分の夢を担がせすぎたがゆえに社会で生きることを虐げられた大衆を知ってもらうことが対策となるのではないだろうか。
第二の対策として、学校での教育の一環に一人で生きていくための勉学以外での教育を施していくべきだ。学校では主に数学や国語等の勉強をしていく。これに間違いはないのだが、どうしても頭がよく無くては生きにくい、または道徳などで勉強以外でも得意を伸ばそうという呼びかけをしているが小学生くらいでまっとうに理解するのは少し難易度が高い気がする。簡単に言えば道徳を皆受けたからといっていじめがゼロになったか、というとなっていないのが現状だ。そのため座学でどのようにすれば生きやすいかを学ぶのではなく社会で必要になるような趣味からの会話の広げ方や、学校での問題にあまりならない程度のさぼり方等を学んでいくことが日本の発展や社会での生き方を正しく学べるため対策になると考えている。
確かに科学の発展や医療技術には学問が必要になる。しかし、「社会で上に立つことは勉学だけでなくコミュニケーション能力等のもろもろが必要である。」やはりもし頭脳や知識だけで生きていけると思っているのなら問題だ。