今やいろいろな領域で単なる専門家という物は
高2 かずま(auyoto)
2025年4月3日
今やいろいろな領域で単なる専門家という物は役に立たないといわれ「専門バカ」という言葉さえ出てくるようになった。けれどもこの問題は、一方で現在ますます専門的知識が必要になっているだけに、どう対処するべきかは簡単にはわからない。長い間、より多く知ることがより真理に近づくことだと考えられていた。ところが事実は必ずしもそうではなく、物を多く知り、知識を持つことはかえって物をありのまま見ることができなくなってしまう。知識が創造的な形で働いているともかえって疎外的に働いているともいえる。彼らは職業的専門家として一面ではもちろん有効な働きをするけど、他面ではそのポストを保守し、その存在意味を示すために逆にわざわざ仕事を作り出すことになる。知識や仕事によって自己を不要に権威づけることになる。専門職というのは確かに多大な知識が必要にるものだ。確かにその分野に入り浸ると、見える範囲が狭く深くなってしまうこともあろう。だが、もはや今の世の中では、広範囲を見渡し、かつ専門的な分野に切り込んでいくことは難しくなっているのではないだろうか。我々は専門的知識を持っていない。彼らは一度専門的分野に入っていった故、こちらの気持ちや状況が時に理解されなくなる。これをここでは「専門バカ」と呼んでいるが、それによって対立が発生しているのだ。専門バカが通じるのは、国際化などと叫ばれ国家や民族すら超えて協力しつつある世の中にミスマッチであろう。専門バカを直すには、双方が「専門バカ」発生の原因を認識することが必要だと私は思う。
まず、専門家側の原因としては、一般大衆に説明することを半ばあきらめている点にあると思う。ニュースなどを見ていて、全く見知らぬ専門家を名乗る老若男女が、何かしらの意見を言うときにいつも思うことがある。それは、その意見に至った経緯が話されていない点だ。自らの経験をもとに発言をしているのか、それとも学術的に前例や根拠があるのか。そのような点が視聴者に説明がなされないことがある。結論だけ先に言われても、そこに至った理由が説明されないと、我々としても情報を鵜呑みにするわけにはいかないので、やはり専門家のイメージを下げるだけになる。ほかにも、専門的な文学書などでも、最初から一般大衆にはギリギリなじみのない絶妙なラインの言葉を多用することがあげられる。わざわざ無理にカタカナ語を多用しなくとも……なんなんだ?この漢字は………と何度思ったことか、少なくとも両手両足の指をすべて使っても足りない。この認識の差が、専門バカな点で、私の言っていることは専門バカを直すためには、専門バカを直すべきだと言ってるようなものだと思うかもしれないが、本は出版するときには自費出版でもない限り編集者を挟むだろう。編集者までもが専門バカに陥っているとは思えない。もしそうだとしたらよほど専門バカは人気だと言える。そんなことは専門“バカ”と命名されている時点でそうで間違っているのがわかる。一般大衆に専門家が説明せず、またしようと思っても周りがうまくサポートできないとなれば、専門バカという言葉がやけに大衆に一般化しているのも説明がつく。専門家が悪いと一辺倒には言えないが、状況を改善する努力をしなければ、非専門家との連携はあまり望めないだろう。専門家の考えを理解できるようにするのは、確かに骨が折れる作業であろう。しかし、それを怠れば、かえってよりひどい仕打ちが待っていると思う。専門バカと侮辱されたい専門家は、さすがにおそらくいないだろう。専門家が専門家である以上、外部から資金などの援助が必要なのも彼らが嫌われるわけにはいかない一つの要素だ。専門家の評判を上げる努力を少しでもしないと、この負の連鎖を終わらせることは難しい。専門家の評判をあげれさえすれば、自然と専門バカという屈辱的な命名も、じきに撤回されていくと私は思う。ただし、非専門家も対応をする必要があるのは当然だ。
次に非専門家側の原因として、そもそも専門家に寄り添おうとしていないことがあげられる。自らの興味のある分野ならともかく、まったく自らの人生に影響を及ぼさないような分野の専門家の言うことが、理解できないのはわかる。私も好きなのは歴史や国語など、文系の話であるが、情報や科学的な話をしている文章を読んでいると、頭がまるで働こうとしない。脳が別の何か重いもの物にすり替えられたような気分だ。その気持ちは十分に理解できる。しかし、理解できないからと言って、その専門家のことを専門バカとののしることはいただけないだろう。専門家は、我々の知りえないであろう知識を知っている時がある。その知識量をないがしろにするべきではないだろう。先の分でも述べた通り、今は国家や人種を乗り越えて協力していくことが推進されている。その状況で、お互いにいがみ合い、利益のない抗争を繰り返すべきでは絶対にない。自らの得意とする分野でない専門家の言うことを拒絶したくなることは仕方がない。しかし、その気持ちに従順になるあまり、逆に専門家の意見をはなから否定し、その言葉に耳を傾けないのは違うだろう。別に最初から小難しい学術書を読めというのではない。しかし、現代の情報社会であれば、専門的な分野の解説などが、多少なりともあるだろう。非専門家向けの情報も誰かしらが発信しているだろう。専門家の話に少しでも耳を傾けるべきなのではないか?それが民主主義なのではないか?話し合いこそ、対立を被害を抑えつつ解決する最善の手だと、私は思う
確かに、専門家という物は特権的立場である故、どこかで腐敗は起こる。その地位や職を保守したいがあまり、必要のない仕事や、工程を追加した結果。ときに非専門家の方が問題解決能力が高く見えることも当然あるだろう。逆に、専門家の知識は侮るべきではなく、非専門家はそれ相応の知識がないのだから、可能な限りその道のエキスパートのリーダーシップに身をゆだねた方がより社会は健全化するのではないかという意見があるのも否定できない。衆愚政治という言葉は、知識のない民衆がかえって問題を引き起こすという問題提起としては有名だろう。知識を追求し、科学的根拠のもと問題を解決する専門家か、人々のこころや道徳に精通し、問題を直視して真っ向から立ち向かえる非専門家か。何事においても、どちらか一方を選択したくなる気持ちはとてもわかる。どちらか一方、はっきりとした意見を持つことはたやすい。議論の際などでも、私は○○、僕は××などと言えば楽なものだ。しかし、世界はそう簡単にゼロか百で決まるようなものではないだろう。私は専門家の知識と、非専門家のこころへの精通を融合させていくべきだと思う。もちろん、それらはお互いに相反することが多い。理論上可能なのだから、できるはずだとするか、人間、特に当事者の気持ちの持ちようや状況を重視するかで対立する例は数えきれない。地図などで徒歩十分と教えられて、本当に徒歩十分で行けるケースはそうそうないだろう。専門バカのいい例だ。地図では理論上行けるが、実際に当事者からしたらとても達成できたものではないという対立だ。これらのように時に対立しあうような二つの理論をどう融合させるのか。対立は時に、発展を生む。私は、このそれぞれの理論をぶつけ合うことで、落としどころを探していくべきだと思う。この対立を無理になくすのではなく、あえて議論という形に落とし込み、お互いの意見で納得しあえる中央値を導き出せば、おのずと最も最適に近い回答が生まれやすいと私は思う。あるものは生かすべきなのだ。今ある対立を、専門バカとののしり、衆愚であると非難しあうのを無理になくすのではなく、お互いにコミュニケーションを取り合って最も最適な回答を作れるようになれば、より発展や相互理解につながるだろう。私が今まで上げてきた原因はすべて、コミュニケーションを取れば解決できる原因であることに気が付いた読者はいるだろうか。専門家が非専門家にもわかるように自らの意見や論を説明する努力をし、また環境を改善するべきだし、非専門家は専門家からの発言に耳を傾ける意思を持ち、行動に起こさなければならない。今の社会は協力することを推進している。対立という名の協力を、相互理解とよりよい回答をコミュニケーションによって導き出すべきなのだ。どちらか一辺倒にではなく。少なくとも、私はそうするべきだと思う。