現代の問題
   高2 わてひ(watehi)  2025年4月3日

 現代社会では、「子供」の問題が捉えにくくなっている背景には、子供に関する共通理解の喪失や、専門的知識に頼りすぎる傾向がある。知識は本来、無知を補うものであるが、知識が創造的に使われず、むしろ現実を歪める要因となることもある。特に「子供」の問題では、専門家による知識が「見えない制度」として働き、「非行」や「落ちこぼれ」といったレッテルを固定化させてしまう。知識に囚われずに相手をありのままに見る「裸の人間」の視点こそが重要であり、人間同士の触れ合いの価値が見直されるべきである。人間の触れ合いよりも、専門的な知識を過大評価する社会に問題がある。

 その原因の一つには、専門分野が細分化されすぎたことがある。専門分野が細分化されてしまうと、触れ合いよりも、知識に基づいた分類と評価の優先され、本来必要な人間的な関係性が置き去りにされてしまうからである。今日の学校教育は、国語、数学、理科、社会と教科ごとに厳密に分けられ、それぞれの科目は専門の教員が教える。この行為は効率的に見えるが、実は「子供を見る」という本質的な視点を失いかねない行為である。たとえば国語の教員は子供の感情表現を、数学の教員は計算力だけを評価し、それらを統合的に見る視点が失われている。結果として、子供は「成績」や「問題行動」といったラベルでしか語られなくなり、その背景や個別の事情が見落とされがちになるはずだ。

 第二の原因として、権威や肩書きを重んじる日本社会の伝統である。その伝統故に結果として、人と人との触れ合いによって見えてくるはずの問題の本質が見失われてしまってきている。『裸の王様』という童話がある。誰もが王様の服が見えないのに、「見えないのは愚か者だ」と信じ込み、誰も本当のことを言えなくなる。これはまさに、肩書きや立場に弱い社会の姿そのものだ。日本でも「〇〇先生」「専門家」といった肩書きがつけば、その人の言うことが無条件に正しいとされ、たとえ内容が人間の実感からずれていても、疑うことを避ける傾向がある。こうした空気の中では、実際に目の前にいる人間と向き合おうとする「素直なまなざし」は軽視され、専門知識に支配された形式的な判断ばかりが優先されてしまっているだろう。

 専門的な知識は、複雑化する現代社会において不可欠なものであり、感情や経験だけでは対処できない問題に対して明確な指針を与えてくれる。また、専門家の存在は社会の信頼を支える基盤ともなっており、その意見が尊重されるのは当然のこととも言える。しかし、「人間とは知識ではなく、人間同士のつながりで生きてきた」という名言がある。どれほど高度な知識であっても、それを使う人間が相手を一人の人間として見ようとしなければ、知識は単なる押しつけやレッテル貼りになりかねない。専門性は重要だが、それを活かすためには、相手との触れ合いと理解を忘れずにいなければならない。知識と人間性が結びついてこそ、真に意味のある判断が可能になるのである。