りんごかもしれない りんごじゃないかもしれない
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年月日
「りんごかもしれない。りんごじゃないかもしれない。」
私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。例えば、私たちはいつもコインを「丸い」ものとしている。普通はコインと言えば、「丸い」という言葉を関連付ける。もちろん、誰でもコインは球ではなく、円盤型だということは承知している。どんなに「コインは丸い」や「コインは玉だ」と言っても、それは決してビー玉球型になるわけではないことも知っている。けれども、コインは、年中円盤型に見えるわけではない。横から見れば、薄い長方形に見えるし、角度を変えてみて見れば、「まる」や「長方形」とは違う形がたくさん見えてくる。文学作品においても、同じことが起こる。例えば、枝から果実が落ちるという事態を目撃したとしよう。普通だったら、「りんごは地面に落ちた」と考えるだろう。しかし、「レトリック感覚」、すなわち同じ一つの事実を異なる視点で見る感覚、を働かせたら、「りんごに向かって地面が突進してきた」や「りんごと地面は互いに惹きつけあった」など、たくさんの面白い考えが浮かんでくる。このように考えてみると、レトリック感覚は、発見的な認識には欠かせない。だからこそ、物事を多角的にみることは良いと思う。理由は二つある。
物事を多角的にみると、新しい発見がたくさんある。例えば、ニュートンの大発見の例がある。ニュートンは、ある日、りんごが木から落ちるのを見た。普通の人だったら、これを見ても、通り過ぎるだけだっただろう。しかし、ニュートンはなぜリンゴが地面に落ちるのかを知りたくなった。なぜなら、「普通」の人のようにリンゴが地面に落ちることを「常識」でなく、「不思議」として捉えたからだ。結果として、その日ニュートンが見たリンゴのおかげで、彼は「重力」を発見して、有名になった。このように日常を疑問に思ったのはニュートンだけでない。今でも愛されている金子みすゞさんもそうだ。彼女の「ふしぎ」というしでは、いつも起きることに抱く疑問が入っている。日常に疑問を持ったから、彼女の生きていた、男性は女性の上だという時代で、「みんな違ってみんないい」という発言、そして発見ができたのだろう。
また、一面的な見方では物事の真の姿が見えてこないからこそ、物事を多角的にみるのは良い。アガサ・クリスティーなどが書いた本に出てくる事件は、誠に面白いが、その面白さは誰でも作れるわけではない。アガサ・クリスティーは、誰でも驚く、意外な手口を日々研究して、本に面白い要素を入れたのだろう。そして、その犯人の手口を探るために、筆者は探偵を多角的に事件を見させて、誰でも喜ぶミステリーの本ができるのだ。もし、それで探偵が一面的にしか考えなかったら、事件は解決できないし、あまり本は面白くなくなるだろう。
もちろん、たまには一面的に考えて、相手との理解を深め合うことも大事だ。だけど、雑草だけど、雑草とは、まだ、その美点が発見されてない植物であるという名言もあるように、多角的に物事を見ることはとても大切だと思う。