名前に惑わされる私たち
高2 あうそな(ausona)
2025年5月1日
逆説的になるが、固有名詞があるというそのことが、言葉を本来的に社会的なものであるということの証拠になる。固有名詞こそが何かあるものを一つしかないものとして孤立させて指し示し固定する道具であり、これをめぐって人間はこれまで苦しみ争ってきたと言えるのである。どんなものも、名づけられると同時に、その領有への主張が滑り込み、固有名詞はたちまち緊張した政治の磁場を作り出すのである。固有名詞だけで判断される現代社会では、先入観や誤解が生まれ、本質が見えにくくなるという課題がある。
忙しい現代人が効率性を重視するようになり、固有名詞に中身や信頼性を見出す傾向が強まったことが社会的原因だと考えられる。現代人は、学業や仕事、家事など様々なものに追われ、身の回りも膨大な量の情報を自分で取捨選択し吟味して熟考する時間がない。そのため、どの企業か、どのブランドかと言った固有名詞が、手軽に一目で信頼性を図れる指標として人々の間で浸透するようになった。特に企業の広告やニュースの見出しでは、限られた時間やスペースの中で人々の注目や関心を集めるために、固有名詞の影響力か強く活用されている。最近では、私の身の回りでもプレゼントとして、とりあえずブランドものをあげれば無難、名前がある方が喜ばれると言った風潮も広がっている。これはブランド名という固有名詞がその中身や意味を超えて、あたかも価値そのものであるかのように扱われている状態だ。私は、手作りのものや手紙がとても嬉しいと感じるものだから、この現状にに少し寂しくなる。もちろんブランドものは品質やデザインなどが優れている点などから価値が高いのだが、何よりもその名前が感情や評価を決定づけている点が問題だと私は感じる。つまり、固有名詞によって私たちは中身を深く考える前に判断を下しがちになってしまっているのだ。
もうひとつの原因は固有名詞が権威や信頼の象徴と見なされ扱われる中で、「名前=価値」という意識が社会に深く根付いたと考える。例えば天皇という固有名詞は、日本において特別な意味を持つ存在であり、その名前だけで経緯や信頼を集める点では、固有名詞が権力を表す高齢と言えるだろう。しかし同時に天皇という名前に過剰に意味が付与されることで、人々が批判や討論をしづらくなることも過去にあった。戦前・戦時中の日本では、天皇の名の下にあらゆる行為が正当化され、個人の意見の抑圧があったという歴史的事実もある。現代では天皇は日本の象徴と位置付けられ、その固有名詞が私たちに悪影響を与えることはほとんどないと言える。しかし他の固有名詞においては「名前」だけが自立し、実態以上の価値や信頼が与えられるケースも少なくはない。要するに、固有名詞は大衆の意思を左右しかねる大きな危険も持ち合わせているのだ。
確かに、固有名詞は物事を差別化し、情報を簡潔かつ迅速に伝えられるという大きな利点もある。しかし、名前そのものに過剰な価値や信頼を見出すあまり、表面上で判断し自分の意見が反映されない社会になりつつあることには注意するべきだ。名前は手がかりになっても、答えにはならない。私たちはこのことを頭に入れ、目まぐるしく変化する現代で自分を見失わずに生きていかねばならない。私はこれから、情報には常に側面があルため多角的に物事を見極めていきながら、自分らしさを大切にして生きていきたいと思う。