ふだん私たちは、コインを
   中3 あかとあ(akatoa)  2025年4月4日

 ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。けれども、水平方向から眺めてみるとあきらかに薄い長方形にも見える。このように多角的に考え、かつ多角的な言葉によって表現することをレットリックという。このことは現代社会における価値の多様性に似ているものだと思う。価値の多様性の問題とは、ものの見かたの多様性という問題でもある。このことで肝心なのは、相手の立場、別の視点に立ってみればそんなぐあいにものが見えるか、ということを思いえがいてみる能力である。このことからも、新しい視野を獲得するためにも、また、相互理解のためにも、レトリック感覚が必要とされると思える。

私はレトリックを兼ね備えるべきであるという意見にとても賛同する。

その理由は第一に、レトリックな考え方が社会を大きく動かしたと思うからだ。

最近では、SDGsの5番「ジェンダー平等を実現しよう」という目標が掲げられ、特に日本ではジェンダー平等という言葉からさまざまな影響を受けた。今までの日本では「常識」という固定概念があったように思える。けれども、その常識からはずれて自身の意見を堂々と主張する様子が最近、よくみられる。例えのひとつめとして「女性の権利」では「女性なのに社長」と見下される風潮があり、今までも理不尽だと感じることもあったかもしれないが、決してそれを理不尽だと主張することはなかった。けれど最近、それはおかしいと主張するかのように堂々と女性が表だって社会で活躍している。このことは日本の固定概念を覆す一歩となったであろう。そして、ふたつめ[lgbtq]では「人と違う自分がおかしい」と常にこれまでの常識と異なる価値観を意図せず悪としてもみ消してきた。けれども最近、「私たちは悪ではない、受け入れてほしい」と主張する人が増えてきた気がする。これらの事例はどちらもレトリック精神溢れる行動といえるだろう。少なくともこのふたつの事例が社会を大きく動かしたということは確かだ。

そして、第二の理由は、レトリックな考えが世の中をよりあたたかいものにすると思うからだ。

このレトリック精神は主張する側だけでなく、受け入れる側にも必要なものである。レトリック精神溢れる行動から、常識外れな主張に対して「それは違う」と一方的な感情で返答するのは間違っていると思う。受け入れる側もその主張をレトリックに考え、受け入れるように努め、また、新たな意見を主張するべきである。このように互いに受け入れよう努めれば、いじめや誹謗中傷なども無くなり、今よりもあたたかい世の中になるのではないか。

このふたつの理由から私はレトリックを兼ね備えるべきであると思う。

それでも、みんながレトリックを兼ね備えるなんて不可能ではないか。と思う人もいるかもしれない。けれども、司馬遼太郎さんの「日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である。」という名言から、私は今までの日本の古風な考え方をずっとみんなで守ってきたように少しずつでもこのレトリックを常識にしていけばいつか叶うと思っている。いや、叶わせるべきだと思う。