【不完全】だからこそ『完全』である言葉
   小6 とやちな(toyatina)  2025年5月2日

 少年のころの桜はもっと長く咲いていた感じだが…と春ごとに同じ思いをくり返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かった。「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。つまるところ、昔からある「花だより」のほうが、はるかに風情に富むのである。散り初めのころのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりとあらわす言葉がないのに気が付いた。花便りのいろいろの言葉を作り出し、育ててきた日本語だから、私のまだ知らないところに、あの美しさを表す言葉があるかもしれない。



 これは四年生の、秋のことだ

「ピーンポーン」

家のチャイムが鳴った。ドアを開けると近所の人がマツタケをお裾分けしてくれた。なぜもらえたかというと、近所の人の実家が長野県にあるらしいからだ。僕にとっては、人生初のマツタケであった。そして、マツタケはマツタケご飯として食べた。僕と姉と父はキノコがとても苦手である。しかし、マツタケの場合は口をそろえて

「食べる!」

と言った。マツタケを食べると歯ごたえはさける(?)ように、香りはとても芳醇な香りがし、リビングは高級ホテルのような感覚であった。それを詳しく言いたいが、言葉にできないくらいの奥深さがあり、ひとくくりで言えば「最高」だ。また、食べているときは「なぜ食べると減ってしまうの!」と心の中で思った。欲を言うならばもう一度マツタケを食べたい。



 僕が母とお寺に行ったときのことだ。そのお寺は山を登るととても大きなお釈迦様の仏像があった。どれだか見上げてもやっと額が見えるくらいの大きさだ。山の頂上までの道のりがとても長く、頂上が付いたころには息が切れていた。そのお釈迦様にはある異変があった。それは横に入口があった。入ってみるととても涼しかった。そうして疲れを癒されていたのもつかの間、目の前に黄金のお釈迦様が居た。つまり、お釈迦様の中にお釈迦様がいて、マトリョーシカみたいになっていた。ライトの当たり方によってより神々しく、お釈迦様に例えるのもあれだが、見本のような神様の感じがし、その神々しさは口で説明するのは無理難題である。また、そのお釈迦様を見に行きたい。



 人間にとって言葉というのは、うまく使いこなすことがとても難しいものである。また、その不完全さこそが究極の完全であると思う。それは、「言葉」だけのことではないと思う。例えば、ブロックのおもちゃのように完成していれば、つくるという重要な工程が抜けてしまう。だから、答え、道のりを完璧示してしまうと分けりやすすぎ面白味のないことであるということである。これからも、不完全でもあり完全でもある「言葉」使いこなしていきたい。