自然というもの
中2 りょう(akataro)
2025年5月2日
シンプル・ライフを体験するには二つ方法がある。第一には旅をすることであり、第二に、もっと簡単な方法は、日本文化の伝統の中からそういうシンプル・ライフを実践した人を探し、その生と自分の現在とを比較することである。むろん現代を生きる我々は古人のような徹底したシンプル・ライフを送ることはほぼ不可能である。現代物質文明によって甘やかされており、とてもそういう厳しい生には耐えられないだろう。
まず初めに、機械化による便利で快適な生活はよい。僕たちはこれまで高度経済成長に始まり、ありとあらゆる便利で快適な道具を作り出してきた。便利になったのは言うまでもない。僕たちも、「パソコン」という道具が日常に欠かせないものとなっている。パソコンに限らず日常生活に欠かせないものは数えきれないほどあるはずだ。それらの道具は、日常生活のあらゆるお悩みに見事応えている。生活を便利にするために開発された道具は、日常のあらゆる場面で活躍している。特に三種の神器と呼ばれる道具などは、昔から日本人の生活のお供となってきた非常に大切なものだと思います。それらの道具などによって機械化された生活は、生活のあらゆる場面での効率化を図ることができると思う。
しかし、機械化されていない素朴な生活にも良さがある。「空気が美味しい」という言葉を耳にすることがあるが、それは自然の多い澄んだ空気の匂いを感じているということであると僕は思う。僕も、田舎と言ったら失礼だが、そういった澄んだ空気を吸うと、心も身体もリフレッシュされる。更に自然が多いという風景を見ると、心が穏やかになる人が多い。そもそも私達人間が今も絶滅せずに生き延びることができているのは、大気中の酸素がなくならないからである。酸素は、植物が光合成をすることによって得られるのだが、光合成以外に酸素を得る方法は身近に滅多にない。更に、大体の主要道路はアスファルトになっており、植物が光合成をしにくい環境になっている。自然を大切にしてきた私達だからこそできる、素朴な生活が大切だと思う。
総じて、便利で快適な生活にも機械化されていない素朴な生活にも良さがある。しかし、「あらゆる宗教、芸術、科学は、同じ木の異なる枝です。いずれも、人間を単なる肉体的存在から引き上げ、その生き方を高貴なものにし、個人を自由へと導くことを目的にしています。」というアルベルト・アインシュタインの名言があるように、最も大切なことは自分が過ごしやすい環境を自ら模索して、創造していくことである。あらゆる場面で機械化された今、昔のような原始的な生活に戻すのはほぼ不可能である。だからこそ、自分が「過ごしやすい」と感じることができる環境を自ら模索していく必要があるのである。「過ぎたるは及ばざるが如し」ということわざもあるように、どちらの面も双方のバランスが大切なのである。