集団の融和
高1 あうては(auteha)
2025年5月2日
一つの集団は、一人の裏切り者と、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまりその時、集団は論理的に構成されるのである。「裏切る」という行為は相対的であり、それは永遠に対象化できるものではないがために、集団は内部を律する緊張を持続させることができるのだ。内部勢力に対して緊張しあったとき、その集団は、集団として自己完結することを選びつつあったのだ。私は、集団間の対立をなるべくなくしていくべきだと思う。
第一の方法は、集団を結束させるのに、共通の敵ではなく共通の目標をつくることだ。歴史上、一つの国家において、民衆の不満がたまりにたまる、あるいは一人の人物が政治の実権を握る際に、共通の敵をつくって集団の結束を強める、もしくは人気を集めるという手法はよく使われてきた。日露戦争も、ホロコーストも一因の一つはこれである。しかし、その手法をとった集団、または国家は往々にして長続きしないことは歴史の証明により一目瞭然だ。ロシア帝国然り、ナチス然りだ。敵対集団をつくることによって憎しみが増幅しあい、次第に人々は疲弊していくことを考えればある意味必然的な結果である。よって、私たちは日本の学校の部活動のように、全国大会出場といった共通の目標によって集団の結束を高めていく方が良いのではないか。
第二の方法は、対等な立場で話し合える場を設け、歩み寄りの姿勢を見せることだ。学校内など狭いコミュニティーにおける集団の対立では、互いに話し合い、利害の相反があったとしても、譲歩の意欲さえあれば解決することは可能だろう。国家間など文化や考え方、背景などが全く違う集団同士では根本的な解決とまではいかなかったとしても話し合いによる実りは少なからずあるはずだ。少なくとも、大日本帝国の末期における中国外交のような一方的な交渉はいたずらに対立を深め、泥沼化させ、現代にまで両国に禍根を残してしまうことになる。私も、Lineで友達と話していて、活字ではどうしても感情が伝わりにくくて誤解が生まれ、喧嘩をしてしまったことがあった。しかし、一回直接きちんと話し合ってみたら蟠りがとけ、以前よりも親しくなることができた。
確かに、人間である以上、対立は起こりうるものだ。しかし、「対立は忌むべきものではなく、向き合うべきものだ」という言葉があるように、感情的になり解決の道を自ら放棄してしまっては得るものも得られなくなり、分断は深まってしまう。捨てるべき時には意地を捨て、解決の道を模索するべきだ。私も、自分に素直になって自分に非があるときはきちんと自分から謝りたい。