言葉の限界と力
   小6 あえさた(aesata)  2025年5月2日

  少年のころの桜はもっと長く咲いていた感じだが…と春ごとに同じ思いをくり返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かった。「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。つまるところ、昔からある「花だより」のほうが、はるかに風情に富むのである。散り初めのころのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりとあらわす言葉がないのに気が付いた。

 僕は言葉で色々と表現していくことは難しいことだと思う。第一の理由は、ある体験を通してそのことを実感したことがあるからだ。それは、小学三年生のころ、兄と二人の友達と一緒に、近所の公園にある山を登ったときのことだった。長い坂を登りきると、一番上には展望台があり、そこからは町が一望できた。空は透き通るように青く、遠くの山々までくっきりと見えた。そのとき頂上に立った瞬間、まるで自分が世界の中心にいるかのように胸が高鳴り、空と自分とがひとつになったような不思議な感覚だった。風が頬をなで、木々のざわめきが耳にやさしく届いた。でもその感動を言葉にしようとしても、うまく言い表すことができなかった。ただ「すごい」としか言えず、そのもどかしさとともに、初めて言葉の限界を感じたのだった。

 第二の理由は、母も同じような体験をしたことがあると聞いたからだ。つい最近、母は父と一緒に近所を歩いていたとき、満開の夜桜の下を通りかかったという。桜はライトに照らされ、花びらがまるで白やピンクの雪のようになっていたらしい。そのときの美しさを母は言葉にしようとしたが、「うまく言えないのよね」と笑っていた。それを聞いたとき、僕は思った。やはりこの世には、言葉では完全に表現しきれない何かが確かにあるのだと。

 そこで言葉で表現しきれないものは何なのか気になったので調べてみた。すると、言葉とは本来、人が気持ちや考えを他人と共有するために生まれたものだということが分かった。つまり、どれほど多くの言葉を使ったとしても、感じたままをそのまま伝えることは難しいというのだ。ある言語科学者の言葉に、「言葉は現実の模倣にすぎない。」という言葉があるらしい。確かに、桜の美しさや心がふるえる瞬間は、人それぞれの感じ方がある。だからこそ、どんなに工夫しても、それを正確に伝えることはできないのかもしれないと思った。

 人間にとって言葉とは、ただの便利な道具ではなく、気持ちや思いを伝えようとする努力のあらわれなのだと思う。言葉にできないからといって、感じたことがなかったことになるわけではない。むしろ、どう言っても足りないほどの気持ちがあるということこそ、大切なのかもしれない。だから僕は、これからも言葉と向き合いながら、自分の心にあるものをできるだけ正直に伝えていきたいと思う。