物の価値とお金の関係性
   中1 あかえか(akaeka)  2025年5月1日

 物の価値とお金の関係性                                      あかえか                                      



木が本来持っている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは必ずしも一致しない。今日では山の木が建築物に変わるまでの間には、木自体が持っている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかという次元の異なる二つの過程が重なり合っているのだろう。そしてそれは、森の違いとなってあらわれ、製材や建築の過程では労働の違いとなってくる。例えば、製材工場を訪ねても国産材をひく工場と輸入材をひく工場とでは、雰囲気がずいぶん違う。国産材は、どこに刃をあてるかで木目の出方などが変わるため職人の経験や勘が工場を支えている。ところが、輸入材は一定の木目のものや、コンピューター製材が多い。国産材の工場は今も職人の世界である。木の文化は、天然のヒノキが細切れの板にされるのをかわいそうだと感じる気持ちに支えられてきた。そして、その気持ちを仕事で実現させる職人の腕とあったのだ。



 物の価値は、お金に換算しないで考えたほうが良いと思う。



 そう考える理由は、物を大切に思えたり、長い間大事に使えたりするからだ。私には、小学一年生くらいから小学六年生まで使い続けた赤紫色の水筒がある。だが、その水水筒は、もしかしたらプラスチックが解けてきてしまうかもしれないため、新しい、水色の水筒に買い替えた。しかし私は、六年間ほど使い続けてきたその水筒には愛着があり、、なにがなんでも捨てたくなかったので、母に、

「この水筒、処分しないで、残しといてもいい。」

と聞いてみた。すると、思っていたよりもあっさりと、

「いいよ。」

という返答が返ってきた。そのようなことがあり、その赤紫色の水筒は、家で、お湯を入れるためのものになった。たぶん、この過程の中で、長い間使い続けてきた水筒を捨てたくないと思った理由は、小学校の六年間を一緒に過ごしたり、その思い出がたくさんあるからだと思う。例えば、学校の体育の時間に水筒をもっていかなければならなかったとき、ただでさえ荷物が多かったのに、さらに持ち手のない水筒が加わったことでさらに持ちにくさが大きくなったというものや、何度も何度も落としたりぶつけたりしてしまって、水筒の底の部分がへこんでいってしまったというものだ。



 確かに、物の価値をお金に換算して考えると、速く問題の結論を出すことができる。しかし、「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」という名言があるように、物の価値をお金に換算して考えるべき時と、そのものの本当の価値を見るべき時とを区別することが大切なのだ。