静かなる炎
   中2 あおらえ(aorae)  2025年5月3日

  父が父の役割を果たしていない。全体的視点のない利己的な人間や無気力な人間が増えている。父でなくなった典型的な例が「友達のような父」である。子との上下関係を捨ててしまい、価値観を押し付けないし、決して強制はしない。すると子は「自由な意思」を持つようになるが「よい意思」を持つようにはならない。そして、不登校になったりいじめをするようになったりするのである。父として原則・理念と生息規則を教え、一定の我慢を教えないと子は我儘に育ってしまう。父の最も大切な役割とは真に価値あると思った文化を教え込むことだ。友達のような対等な関係では、文化を伝えることも、生活規則、社会規範を教えることもできない。「友達のような父」は父の役割を果たすことのできなくなった父といえる。



 我儘な犬は、幼少期にうまく躾をされないために生まれるのだ。飼い主は犬に対して厳しくなくてはならない。同様に、人の子供に対しても父は厳しくあるべきだ。社会は厳しい。イソップ童話の「アリとキリギリス」にある通り、怠けているものと働いている者では大きな差が出てくる。怠けると、後々困ることになる。キリギリスのように自由な生活をするのはいいと思うが、アリのように先のことを見据えて何か手を打っておかねばならない。そのような厳しい世の中に、家庭では王子様のように育てられた人は対応できないだろう。中国における一人っ子政策の時に生まれた人を「小皇帝」と呼ぶ。一人に過剰な愛情が注ぎ込まれた結果、その人たちは自己中心的であると同時に我慢が苦手などの特徴があるという。そうならないためにも、厳しくなければならない。



 小さな芽が育つには、強い風よりも穏やかな日差しが必要だと言われる。だから、穏やかな日差しのような親は強い風のような親よりも良いと思う。優しい親には気軽に相談でき、また相談に乗ってくれるはずだ。相手から決めつけることのなく、自分から決めることができるだろう。例えば、医者は自分の子供を医者にさせようと努力したり、裁判官は自分の子供を裁判官にさせようと奮闘したりすることがあるらしいが、子供側は必ずしもそれを望んでいるとは限らない。ボウルビィの愛情理論というものがある。愛着が形成されていると、親を「安全基地」ととらえる。自尊心や対人関係に強く影響を与えるものもある。しかし、厳しい親、厳しすぎる親であるとなかなかそれらの形成は難しくなる。心理的安定の基礎となるため、愛着は人にとって欠かせないものであるはずだ。



 厳しい親も優しい親も、どちらにも良い部分と悪い部分がある。モノには一般的にあるものだが、どちらになるかによって子供の発育に重大な影響を与える。子供によってどちらが良いかは異なるはずだ。それは生まれて、ある程度成長してからでしかわからないし、分かった時にはすでにとき遅しとなっている。「万物は毒であり、毒でないものはない。用量のみがそれを決める」という言葉がある。医学の祖といわれるパラケルススという医学者の言葉である。厳しい親も、優しい親も、どちらも過剰になったら子供にとって毒となる。容量のみがそれを決めるのだ。ある程度、両立させることが大切だろう。ただし、父として、親として最も大切なことは子のためを思ふことである。自分の果たせなかった欲望を子に引き継いだり、親が最も興味を持った職に勧めたり。子の特徴を鑑みて、倖せを考えてこそが真の親である。そこには厳しいも優しいもなく、ただ子どもに対する思いがあるはずだ。