強くなるには
高1 あえたき(aetaki)
2025年5月2日
一つの集団は一人の裏切り者と、一人の被害者の上に成り立つ。キリストとユダの伝説においてもユダを「裏切り者」としてキリストという「被害者」を生み出したことで一つの関係が完成した。「裏切り者」を用意することは集団の不安定な心情を安定させる。しかし、集団が「裏切り者」を作り、自己完結を目指す行為は集団が衰弱しつつある証拠である。私たちは、敵を作ることなくやって行けるように個人がもっと強くなるべきだ。
そのために、第一に他者のせいにするのではなくまず自身の行いを振り返る行動を習慣づけることだ。私は、よく家で「私じゃなくて〇〇がやった」と言いがちだ。机の上が散らかっていたり、ゴミがそのままになっていたり、様々な場面で私のその言葉は出てくる。そのようなことを言うと大抵両親に叱られる。確かに自分の行動を振り返ってみると、机の上が散らかっているならば自主的に整理整頓をすれば良いし、ゴミが置いてあるならば誰がそのままにしておこうがゴミ箱に自ら入れるようにすればいいのである。すぐにそうやって他者のせいにしがちだが振り返れば自分にも非があったと認めざるを得ないことはまだまだたくさんある。まず、自分に原因はなかったかどうかを振り返るようにすることで自然と他者のせいにするような言葉は減っていくだろう。そうして反省しておくことは、わざわざ敵を作るような行為にはつながらない。
また、個人を認め合える社会に変革していくことも重要だ。現在の社会では「男性はこうあるべきだ」、「女性はこうあるべきだ」そういった固定観念からの脱却を促すような社会に変化しつつある。しかし、まだその固定観念や常識にとらわれてしまっている部分も大いにある。その部分から外れてしまう人を他者は、阻害しようとする傾向にあると思う。そうなると、その枠から外れる人は自信を失うかもしれない。個人が強くなるということは個人がありのままの姿で輝けることをいうのではないのだろうかと思う。固定観念の多くは幼少期に形成される。そうした時代から、多くの世界に触れること、多くの人を見ることで他者を受け入れる寛容な心が形成されると思う。私も保育園に通いながら自分や家族以外の人と関わり合うことで様々な世界を見ることができた。こうして、個人を認め合える社会の養育は大切なポイントになるのではないかと思う。
確かに敵を作ることは団体意識が生まれて結束力が上がる。しかし、敵がいなければ団体として成長することができないというのは未熟ではないだろうか。「真の敵は自分である」という言葉のように、敵は誰かに敵対意識を持つことでしか成長することのできない自分である。まず自分のどこが弱点なのか、どこがいけないのかそのことを知ることが自分を強くするための第一歩ではないだろうか。私は敵がいなくてもやって行けるような強い人になりたい。