県境を超えて変わる方言
小6 たくみ(nomutaku)
2025年5月3日
どこの言語も初めは部族言語なのですが、その言語が外国に広まりだすと、外の視点が入ってきて言語の刈こみが行われてくるということなのだ。国語として日本人が自分の言語を見るときは、完全に内側の視点で見ているということだ。ところが、外国人たちは、ことばの決まりも発音も知らないで日本語を習うのだから、外の視点しかもっていないということだ。これは、一つの大事な国家的事業であり、個人ではできないのですから、国際交流基金などが中心にやる仕事だと思うのだ。
日本には同じ意味でも発音の仕方や言い方が全く違ってくる方言というものがある。例えば、しょっぱいという意味をあらわすとき、関東の言い方ではしょっぱいというが、関西の言い方では辛い、さらに西では塩辛い、石川南部から福井の北部にかけては、くどいと言い表すということなのだ。今みたいに言い方が違い、それを違う方言の人に言うと、意味が分からなかったり、別の意味でとらえられてしまうことが多い。つまり、同じ日本語でも話し方や発音の仕方はこんなにも違ってくるということだ。でも、同じ話し方のときもないことはないので、意味がすぐに伝わる言語も結構あるということになる。それがまるで、同じチームでもそれぞれの人の作戦のやり方が全く違うみたいだと思った。ただし、意味が同じいい方は話がかみ合う人同士の会話みたいだとも思った。
5月16日、つい最近のことだが移動教室の最終日に日光江戸村という場所に行った。そこでは何もかもが江戸時代のもので、話し方も建物の構造も見たこともない建物ばかりだった。そのなかで、スタッフの人たちに質問をしたところで、江戸弁ではなしているひとばかりだったので、いったいどういう意味なのかが分からなくなってしまった。このように、同じ東京でも昔と今では話し方が全く違ってくるということもよくある。ただ、「マジ」などの現代の言葉が江戸時代に生まれた言葉だという場合もある。それが、今と昔で同じものを作るときの作り方が全く違うみたいだと思った。また、時代じだい(自体)が変わっても言葉が変化しないことは、そのままの作り方が受け継がれてきたみたいだと思った。
ぼくは、日本語というものはとても複雑のものであり、時代とともに姿を変えている日本独特の言葉だということなのだと気が付いた。最終的に、日本語というものは外国人にとって教えられてもなかなか話すことが難しい独特な言葉だということだ。また、地方によって姿を変えることは、ところ変われば品変わるに近いと思った。でも、やはり方言は複雑に入り組んでいる言語だとしか思えないような難しい話し方だというのだ。方言は変な言い方ではなくて独特な言い方だということをしっかりと頭に入れておきたい。