自分の意志
高1 あうては(auteha)
2025年5月3日
日常生活における「何もしないでいる」時間というのは、芝居の「暗転」や「幕間」と似ている。多くの観客がここでホッとするのは、無意識にではあれ、それまで「流れ」として連続していた時間を、「積み重ね」として体験しなおすことができるからであり。その呪縛から逃れることができるからである。「流れる」時間については、放っておいても体験できるし、むしろそれに呪縛されている感が強いのだが、「積み重ねる」時間については、我々自身が意識し、工夫しなければ体験できないことになりつつあるのではないだろうか。私たちは多忙な時間の潮流の中にあって、自由を求めていくべきだ。
第一の方法は、趣味を見つけることだ。私たちは、学校や会社などといった集団に属している以上、個人の時間の使いかたはかなり定まっている。つまり、自由なことをする時間がすくない。特に現代では効率化を追求する社会的風潮のため、時間に追われる生活を送っている人々が数多く存在する。私も高校に通い始めてから家を出る時間が一時間半も早くなり、目覚まし時計を使用し始め、アラームに怯える生活へとなってしまってた。このような睡眠時間を削るほどの時間に余裕のない生活の中にあって趣味は必要であろう。一時の心の安寧と時間の縛りからの解放、そして時間を好きなことに少量でも費やすことのできる自由は、人にとって大切なはずだ。
第二の方法は、目標までの手段までをも縛らないことだ。現代の人々の定められた行動のほとんどは、達成すべき事があるがために為されている。私の場合で言えば、去年度は放課後の時間の約半分を塾に取られていたのだが、通っていた理由は当然高校に受かるためであった。このように、期限が決まっている目標があるがために、私たちの日々の生活のルーティーンは所属集団に大きく依存している。しかし、その中にあって目標が達成されさえすれば、その手段は問わないという自由も認めるべきだ。例えば、テストで良い点を取るために、学校からは問題集のテスト範囲の部分の提出を画一的に求められた。ただ、目標はあくまで知識の定着であり、テストで高得点を取るためであるのだから、既に身についているところをやっても時間をただ消費するだけとなってしまう。手段は個人の自主性に任せるほうが良いと思う。
確かに、私たち人間は自由のない生活は自由のない生活で適応できてしまう。私も高校生活が始まったばかりの時はこんな忙しさで大丈夫かと疑問であったが、案外なれると何も感じなくなる。極端なところで言えば、長期収容者で、自由のほとんどない刑務所の中で数十年も暮らしていけるのは人間が環境に適応するからだろう。しかし、「自由のない人間はもはや自分自身ではない」という言葉がある。私たちの多くは潜在的に、無意識のうちに我々自身に関する大部分の自由を失ってしまっているのではないか。一度きりの人生の豊かさを得るためには自分の意志による行動は大切だ。