同じ時間は存在しない
高2 うた(aimee)
2025年5月2日
山川の流れが早瀬となって走るとき、表層の水は白く泡立って流れていても、深層の水は静かにたたえている。同じように、流れない時、時間をこえた時、というものは存在した。時の原初の意味を考えると、時は「もの」である。手で捕まえたり、目で見て耳で聞くことができる「もの」であるのだ。桜の花の咲く時、梅の実の黄ばむ時。そういう時に逢う時、それが時である。時は、私たちの人生がその上に展開する座標ではない。日本の時間とボルネオの時間、現代の時間と古代の時間、私の時とあなたの時、すべて異なるものである。時間は決して一つにはなっていないのだ。そんな中で、今日の私たちが一定の時間に縛り付けられていることは問題である。
その原因としては第一に、私たちは未来の予定が定まっていないということに不安を覚えるからだ。人間誰しもがいつかは死ぬわけであって、時間は有限である。その重みによって、私たちは、計画を立てなくてはという思いに苛まれるのであろう。計画を立てる、すなわち時間を管理することは、私たちに安心をもたらす。しかし、時間に囚われることは本当に良いことなのだろうか。私は日々、とにかく無駄な時間を作りたくないと思い続けている。だからこそ、綿密な計画を立てるのだが、もちろん全てが上手くいくことはなく、そのような時に受けるダメージは大きい。そして、一回計画が破綻すると、何もかもどうでもよくなってしまうことである。もうそうなったらどうしようもない。ひたすらネットサーフィンをして数時間が経ってしまっている。こんな時、「つい先ほどまで、時間がないと焦燥感に塗れていた自分が馬鹿らしい」と心底思う。そして一番皮肉なのが、それだけ遊んでいても結局どうにかなってしまうことなのである。
第二の原因として、効率を追求するからである。産業革命以前、私たちは時計ではなく、太陽の動きや季節に従っていた。その後、工場生産などが一般化し、私たちは効率のために時計に従うようになったのである。資本主義社会では、限られた時間の中で、どのくらい何を達成したか、によって成功が決まる。しかし、私たちは効率を意識しすぎるあまり、その必要がない時にも、心の底に、効率という文字がこびりついて離れなくなっているのではないだろうか。例えば、放課後や休み時間に友達と談笑をしている時である。少なくとも私は、どうでもよい話をしている時に、どこか罪悪感を感じてしまうことがある。この時間にもっと勉強ができるのではないか、ピアノの練習時間を増やせるのではないか、などと、友達といる時間すら大切にできないのである。休む時は休む、と切り替えられない優柔不断な私の性格の問題でもあると思うが、効率化に対する意識は少なからず影響していると感じる。
確かに、社会、家族、友人間などと、無数の集団に属する私たちには、時間管理能力が求められる。特に、文明社会である日本では、時間管理ができない人は、軽蔑の目で見られる。しかし、その思いに囚われすぎている結果、休息をとっている時でさえ、時間に囚われることがある。私たちは、一人一人、別々の時を生きている。そして、自分の時間を管理することは目的ではなく、手段である。そのことを忘れずに、息が詰まらないように、時間に縛りつけられることなく生きていきたいものだ。