人間にとって言葉とは
   中2 あけみお(akemio)  2025年5月3日

 日本語は、いままで日本民族によってしか使われたことのない内輪の言語、つまり部族言語だ。日本語は、外国人によって学ばれ、使われた経験がないために、植木屋を十年も入れなかった庭みたいでめちゃくちゃに枝が伸びているという状態だ。日本は、これからどうやって日本語を刈り込んでいったら国際普及の日本語になるかということを考えなければならない。そして、これは国家的な事業として相当大きな研究課題としてお金をかけ真剣に取り組まないと、どうにもならないと思う、と筆者は述べている。



 私が中学一年生の頃の話だ。友達に「今日遊ばない?」と聞かれた。私は帰ったら、家の家事をして買い物に行くつもりだった。だから、遊べないという意味で「うん」と答えた。そうしたら、友達は遊べるの「うん」と勘違いしてしまった。それで喧嘩をしてしまい、その友達とはしばらく話をしないという大きなトラブルになってしまった。その経験で日本語は同じ言葉でも色々な捉え方があって難しいと感じた。



 また、言葉の難しさを感じた話がもう一つある。祖父は子供の頃、東京の下町に住んでいたそうだ。祖父と話をしているとおもしろい言葉がわりと出てくる。中でも下町の言葉は「ひ」と「し」の区別があいまいなようだ。例えば、「コーヒー」を「コーシー」、「ひらがな」を「しらがな」と言ったりしていて一瞬戸惑ってしまう。他にも東北や関西や九州などその土地によって方言がある。日本語は難しくておもしろいなと思った。



 日本語は同じ言葉でも人によって捉え方が異なる。例えば、先程の「うん」という返事は、肯定になったり否定になったりする。そのため、言葉を付け足して「遊べるよ」「遊べないよ」と説明をすることが必要だ。それに対して英語では、肯定なら「Yes」、否定なら「No」と答えればよいので単純だ。これから日本は、国際普及の日本語にした方がいいと思う。「百聞は一見に如かず」という言葉があるように何度聞くよりも一度目で見たり経験したりする方が物事を理解するのに確実である。人間にとって言葉とは、自分でいろいろな経験を積み重ねて、知識を高めていくことで自分を表現していくものだ。だから、知識を高めていろいろな言葉で自分を表していきたい。これからも大切に言葉を使っていきたい。