倖せな地 清書
   中2 あおらえ(aorae)  2025年5月4日

  われわれの、物資文明社会の中にいる者達の生活は無駄なものに占められている。人間は生きていくうえでわずかなものしか必要ないということを、地球上の、まだ昔ながらの素朴な生活を営んでいるところへ旅をすればよくわかる。われわれが生活必需品のごとく思いをなしている様々な文明の利器の一部は生きるためにほとんど必要としない。良寛や兼好法師らといった人物は素朴な生活を送った。良寛をとれば、草庵に住み、食は乞食により、衣は来ている黒衣一つという極限の単純さに生きた。しかし、彼の詩を読めば、心がいかにゆったりと満ち足りていたかがうかがえる。人が生きるために必要なものを考えるとき、人は自分たちが文明によって余計なものをいかに持たされているかを知らされる。



 だが、都会に慣れ親しんだ我々にとって、何事にも効率化を叫ぶ人たちにとって、便利で快適な生活ほど望んでいるものはないように思える。電球の発明によって、夜も変わらず充分明るい中で活動できるようになった。江戸時代に飛脚たちは途中で交代しながら東京・大阪間を最短2日強ほどで結んだという。だが、現在提供されているIMSを使えば、瞬く間に相手にメッセージが届く。人は情報を欲している。情報がないと不安になるからだ。そしてそれは現在、SNSやテレビなどで解決される。それらによって最新の情報を瞬時に知ることができる。例えば、テレビでは自然災害や事件が起こればすぐに速報が流れるうえ、高速道路で渋滞が起こっても渋滞情報として流れてくる。それによって出かけ先を変更した経験も多々ある。また、SNSにより急なイベントの開催が告知された場合、それがなければ集まってくる人はそう多くないだろう。人の手によってチラシを配れる範囲、打たれた広告を見る人は限られている。



 しかし、シンプルな暮らしを好んで営んでいる人たちもいる。それを幸せであると思っている人も多いだろう。機械化が進んでいない、そういった暮らしも良い。機械化によって失われるものもある。イソップ寓話には、「虚飾で彩られたカラス」という話がある。この話は、コクマルガラスが自らの黒い羽根が醜いと思い、孔雀の羽をつけたうえでほかの黒い羽根を纏ったカラスを嘲笑する。さらに孔雀の仲間にさえ入ろうとするが、孔雀たちはコクマルガラスの羽をむしり、追い返す。さっきまで彼に見下されていたもとの仲間の中にも彼を相手にする者はいなかった、というストーリーだ。余計なものは身に着けず、元の、ありのままの姿が一番良いということである。人の暮らしにも、余計なものが多い。その本当に必要ではないものに気を取られて大切な事を疎かにしてしまっては元も子もない。余計なものによって失われてしまったものもあるのかもしれない。



 確かに、便利で快適な生活には良い面があるし、シンプルな暮らしにもまた別の良さがある。だからこそ、人々は快適だと思っている暮らしを抜け出して、キャンプというわざわざ不便なところへ身を置きに行く行為を行うのだろう。その素朴でシンプルな、生物の本来おかれているべき環境である自然に魅了されるのだろう。「世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ」とイギリスの劇作家、ウィリアム・シェークスピアはいっていた。便利で快適な生活も、シンプルな、人間本来の暮らしも、そのどちらにも魅力はある。だからこそ、最も大事なことは、自分が今倖せであると、自分の人生は倖せだったと感じられるその自らに適した環境に身を置くことに限る。