我が時は金なり
高2 あうそな(ausona)
2025年5月2日
魏志倭人伝にあるように、時は流れている。流れているのだから、時にあった生き方をするしかない。その時が時である。何が正しくて何が間違っているかは、その時その時で違う。時は変わるのである。だからこそ、自分がその時をどう生きるかという「実存の問題」が問われる。梅の実が熟す時は、その時である。それが時である。その時が時なのである。それが、覚悟ということなのだ。人が今という時を自由に生きられず、時間に縛られてしまう現代社会の在り方に問題がある。
その原因は第1に、資本主義と効率重視の価値観にある。経済発展や利便の追求など未来のためだけに時間を割くことが当たり前とされてきている現在。これは本当に人のより良い生き方に貢献しているのだろうか。その象徴の一つとして受験が挙げられるだろう。 いい大学に入るために、小学校から半強制的に塾へ通い、休息や自分の好きなことに時間を湯買う余裕を奪われていく。自分の人生に彩を与えるような活動こそ、この感性豊かな10代にやるべきだと思う。今を楽しむより、将来のために努力するべきだという価値観は、一見正しいように見えるが、その楽しいと思える将来はいつどこでくるのかはわからない。たとえ受験が終わっても次は就職といったイベントが次から次へとのしかかってくるだろう。そうしてまた振り出しに戻る。このように、時間は目的達成のための手段としてのみ評価されているのが現状だ。
もうひとつの原因は、デジタル社会による常時接続と時間の侵食である。インターネットが普及しデジタル化された社会を生きる私たちは、年中無休であらゆる情報にさまざまな面で触れている。常に誰かに答え続ける日々の中で、私たちは無意識のうちに自分の心の余裕を削がり取られている。そのため、ただぼんやり過ごすだけの自分一人の時間は明らかに減少しており、それはつまり、ありのままの自分でいられる機会の縮小を暗示している。スマホやSNSの波にのまれ、今ここにいるという感覚は薄れ、意識は過去や未来に飛ばされていく。そうして、気づいた時には他人の時間軸で他人のペースに合わせて生きている、という恐ろしい事態に陥っているのだ。
確かに、細かな時間管理は社会を便利にそして円滑に動かすためには必要だ。しかし、私たちはもっと、「何かをしている時間」だけでなく、「何もしていない時間」も大切にするべきだ。時間に支配されるのではなく、自分のリズムで時間と向き合える社会こそが、理想的だと思う。未来という蝶ばかり追いかけていると、足元に咲いている幸せを踏みつぶしてしまう。そう考えると、短所として取られがちなマイペースとされる人たちは、ただののんびりやではなく、時間に対して余白や間を思い出させてくれる大切な存在なのだ。彼らは目まぐるしく変化し続ける社会と人の生き方を見直すための鍵になるかもしれない。私はこれから、社会に流されず私らしい生き方を貫き、そしてあらゆる人々の素敵な生き方もたくさん知って、理想の自己像を形成していきたい。